六 諸国に洪水

 京都に猛烈な雨が降っていたころから、愛知県西部地方にある篠岡の丘にも雨は降り続いていた。この雨で、篠岡丘陵の北側にある大山川の水位はどんどん上昇し、大山寺から大山川を見下ろすと、大山川は、恐ろしいまでの濁流が渦を巻いていた。その雨雲は、京都で美福門院得子たちが雨を止める「五壇法」の祈祷をしている午前中いっぱい、大山川に雨を降り注いだ。そして、美福門院得子が雨を止める「五壇法」の祈祷の効力に感動しながら法勝寺に向かっていた昼頃、大山川の川の水は堤を超えて、篠岡丘陵の窯で働く人々が住む集落に流れ出した。

 大山寺には、二階建ての太鼓堂が建っていた。太鼓堂の二階には、半鐘が吊り下げてあり、いざという時には、大山寺の当番の僧侶が太鼓堂の二階に上って、半鐘をうちならすことが決まりとなっていた。

 その日の当番は、修行僧の星海だった。大山川が決壊して、篠岡丘陵にある窯で働く人々が住む集落を大量の鉄砲水が襲うのを、太鼓堂の上から見ていた星海は、思いっきり、半鐘を打ち鳴らしていた。しかし、その音も、雨の音でかき消され、集落に住む人々の耳には届かなかった。

 福寿女とその父親は、大山川が決壊したとき、篠岡丘陵にある窯で働いていた。篠岡丘陵は、窯で働く人々が住む野口、林、池ノ内、大草の集落よりも一段高い場所にあったため、決壊した大山川の水は、篠岡丘陵よりも低い土地にある集落を襲ったのだった。福寿女とその父親にも、大山川の水が、自分たちの家の方向に流れていくのが見えた。「今年もまたこの季節がやってきた。」と福寿女は思った。

 大山川は、大雨が降るといつも決壊していた。だから、家族の間では、大山川が決壊した時の備えと避難場所は、申し合わせてあった。

 昨晩、大山寺の僧兵たちが福寿女の家を訪れて、「こんな激しい雨が降り続いては、今年もまた、大山川は決壊する。早く、荷物をまとめて、安全な所に避難した方がいい。」と一言告げていった。従って、昨晩のうちに福寿女と父親は安全な篠岡丘陵の窯に働きに出て、野口の集落で弟たちの面倒を見ながら、畑で野菜を作っている福寿女の母親と子供たちは、当分の保存食を持って、大山寺のある山の上に逃げていた。福寿女の家族は、篠岡丘陵で窯を操業し始めてから、10年になるので、大山川の事情はよくわかっていた。しかし、今年初めて、篠岡丘陵に窯を開いた者たちの中には、大山川の洪水の犠牲者となった者も少なくなかった。

 翌日、雨がやんで、台風一過の素晴らしい晴れになると、福寿女と父親は、大山寺を目指した。大山川は、まだ、水かさが高いので、篠岡丘陵から、大山川を避けて、大きく迂回をして、山をよじのぼり、ようやく、大山寺にたどり着いた。

 大山寺の太鼓堂のあたりは、大山川の洪水から避難してきた人々でごったがえしていた。家族や知り合いとの再会を喜ぶ者、茫然自失となって座り込んでいる者、けがをしている者など、悲喜こもごもの様子であった。そのような者たちの間をかけずりまわって、なぐさめたり、忠告をしたり、けがの手当てをしたりしている者たちは、大山寺の僧兵たちであった。

 「福寿窯の滋郎さんではありませんか。ご家族の方はみんな無事でしたか?けがはされていませんか?」

 と、福寿女とその父親に話しかけてきたのは、大山寺で福寿窯から陶器を受け取る係をしていた、修行僧の星海だった。この頃の大山寺は、日月窯だけではなく、福寿窯を始めとする複数の篠岡丘陵の窯に、大山寺で使用する陶器を焼くことを依頼していた。

 福寿女の父親滋郎は、修行僧の星海に福寿女の母親と子供たちの居場所を尋ねた。修行僧の星海は、

 「ああ、その方たちでしたら、きのうの前の晩から、この寺の太鼓堂のあたりに避難されてきたので、小堂の方にご案内しました。こちらです。」

 と言って、福寿女とその父親を寺の小堂のひとつに案内した。

 修行僧の星海は、福寿女の家族が再会するのを見て、ほっとしたが、同時に、小堂の中にうずまく他の家族たちのひそひそ声には、耳を傾けないではいられなかった。

 「僧兵さんたちが、洪水が起こりそうになるたびに、村の人たちに避難を促してくれている努力はよくわかる。しかし、都の方では、川を掘ったり、川幅を広げたり、堤を高くしたり、増水した川の水をためる池を造ったりしてくれる、えらいお坊さんがいると聞いている。何度も避難するのは大変だし、洪水が起こって、畑や家が流されてしまうことのないように、この寺の人たちが大山川を改修することはできないものかね。何度も、一軒一軒、避難を呼びかけるのも大変な苦労だろうに。」

 毎年ささやかれるこの声を、修行僧の星海は、何度も、高僧を通じて、玄法上人に知らせてきた。しかし、玄法上人が高僧を通じて星海に答える内容は、いつも決まっていた。

 「この大山寺の規模の寺に、河川の改修をするお金と人を集める力はない。それは、都にお願いして、やってもらわないと。

 しかし、この地域の国司には、何度もその話はしているのに、国司は動いてくれていないようだ。

 来年の4月、比叡山で、全国の天台宗の寺院のトップの僧侶が集まって、天皇陛下の御衣を奉戴して、玉体安穏・鎮護国家・万民豊楽を祈願する「御衣加持御修法」という年中行事がある。そのとき、天台座主などの高僧に大山川の改修をお願いしてみよう。

 しかし、昨年の「御衣加持御修法」のときは、比叡山の高僧は、話は聞いてくれたが、

 「天台宗は天皇のためにお祈りはするが、河川の改修は、天台宗の仕事ではない。河川の改修をやっている僧侶は、別の寺院で、国家とは関係なく、個人的にやっているようだ。玄法上人も、個人的に、河川の改修を引き受けてくれる僧侶に頼んだらよいのではないか。しかし、噂では、その僧侶のもとには、全国から、大量の依頼が舞い込んでいて、とても、全部引き受けられる状況にはないと聞いた。」

 という返事だったよ。都の偉い人たちは、自分たちのまわりをよくすることで手いっぱいで、「この世の終わり」で「尾張地方」という名前がついているこのへき地のことまで構っていられないのだよ。この大山寺では、大山寺にできる範囲で、できることをする以外はなんとも手のほどこしようがないのだよ。」

 しかし、大山川のある大山寺の地域のように、度重なる洪水で困っている地域は、全国に山のようにあり、洪水を防ぐために、河川の改修を訴える地域は、日増しに増えていった。もちろん、京都の朝廷の人間たちも、全国からの洪水を防ぐ陳情の声には気づいていた。そして、久安7年になった年の1月26日、近衛天皇は、元号を改元することにした。

 「昨年の中頃から、諸国は、暴風の災害に会い、人民は、洪水に困っているため、久安7年を仁平元年に改める。」

 そして、朝廷は、全国の河川の改修をする代わりに、大勢の犯罪者を自由にして、社会に放ち、全国民の各年寄りや僧侶(尼僧も含む。)には、穀物を分け与えたのであった。

上へ戻る