七 御衣加持御修法にて

 久安7年が仁平元年となった年の4月、今年も例年と同じく、比叡山延暦寺の根本中堂にて、全国の天台宗の有名寺院のトップの僧侶たちが集まって、「御衣加持御修法」という年中行事が行われた。もちろん、「西の比叡山、東の大山寺」とまで言われている大山寺の玄法上人とその弟子たちも、毎年、「御衣加持御修法」という年中行事には出席していた。

 「御衣加持御修法」とは、毎年、4月4日から11日間、延暦寺の根本中堂にて行われる年中行事で、天台宗では、最も重要な大法要であるといわれている。延暦寺の根本中堂には、最澄が延暦寺を創建して以来安置してある薬師如来像と、延暦寺を開いてから一度も絶やした事がない「不滅の法灯」が灯っている。その延暦寺根本中堂の内陣に、天皇の勅使が京都から運んできた天皇陛下の御衣を安置して、天台座主以下全国の天台宗有名寺院の代表の僧侶たちが玉体安穏・鎮護国家・万民豊楽を祈願するという年中行事が、「御衣加持御修法」なのである。

 「御衣加持御修法」の初日、大山寺の玄法上人たちは、比叡山延暦寺の根本中堂の前で、天台座主の後ろに列をなし、京都からの勅使を待っていた。

 「天台座主の行玄大僧正の後ろに並んでいる弟子の覚快法親王が見えるだろう。彼は、 去年の10月に大僧都に出世したそうだよ。」

 玄法上人の後ろに並んでいたある僧侶が玄法上人に、こう、ささやいた。玄法上人は、後ろに並んでいたその僧侶に小声で聞き返した。

 「行玄大僧正の弟子の覚快法親王といえば、鳥羽法皇様の七番目の皇子ではないか。それが、なぜ、去年の10月に大僧都になったのだ?」

 すると、後ろに並んでいたその僧侶は、こう答えた。

 「去年の9月の終わりころに都に大雨が降って、法勝寺に行きたくても行けなかった美福門院様が、鳥羽法皇様を通じて、行玄大僧正に雨を止める法をやってもらうようにお願いしたのだ。それで、行玄大僧正は弟子の覚快法親王と一緒に、御所で、朝廷の人々を前に「五壇法」を修した。そしたら、「五壇法」を1回修しただけで、雨はやみ、風もおさまり、雲ひとつない晴天になったそうだよ。」

 玄法上人は再び、後ろに並んでいたその僧侶に質問した。

 「行玄大僧正が「五壇法」を修したときの不動明王は、どの不動明王を使われた?」

 すると、後ろに並んでいたその僧侶は、こう答えた。

 「私たちが、前に何度も祈祷した「青不動」だよ。今は、行玄大僧正が門主をつとめる青蓮院門跡寺院の中にあるあれだよ。」

 「ああ、あの青不動か!」

 玄法上人が、こう、大声をあげそうになった時、京都からの天皇の勅使が比叡山延暦寺の根本中堂の前に到着した。

 束帯姿の京都からの天皇の勅使が、袈裟を着た僧侶の集団の中に到着すると、その姿は、とても目立っていた。行玄大僧正以下、根本中堂の前に並んでいた僧侶たちは、一瞬、皆、襟を正した。そして、天皇陛下の御衣が、天皇陛下の勅使から天台座主である行玄大僧正に手渡されると、天台座主以下後ろに並んでいた僧侶たちは、天台座主に続いて、列をなして、延暦寺の根本中堂の中に入っていった。そして、天皇の御衣を運んできた京都からの勅使は、根本中堂には入らず、そのまま、京都に帰って行った。

 大山寺の玄法上人が根本中堂の中に入ると、天皇の御衣は、金襴に覆われた唐櫃から、天台座主の手によって、根本中堂の内陣に供えられるところであった。玄法上人たちは、まだ寒い根本中堂の中で、朝・昼・晩と一日3回、それぞれ2時間くらいずつ、玉体安穏・鎮護国家・万民豊楽の祈願を1週間続けた。

 ところで、「御衣加持御修法」の行事の間、玄法上人たちにとって、祈願をしていない時間は、食事などをとりつつ、他の地域の寺院の僧侶たちとの情報交換をする貴重な時間であった。しかし、今年の「御衣加持御修法」の行事の間に、他の寺院の僧侶たちから話題に上るのは、去年の9月の終わりころに、「五壇法」を1回修しただけで結願した行玄大僧正の話と、そのおかげで、その弟子の覚快法親王が去年の10月に大僧都に出世したという話ばかりだった。

 玄法上人は、今年の「御衣加持御修法」の行事が進むにつれ、だんだん、うんざりしてきた。行玄大僧正が「五壇法」を修した去年の9月の終わりころ、玄法上人のいる大山寺の地域にある大山川は決壊し、多くの人々が、亡くなったり、家を失ったりしていた。そして、玄法上人のいる大山寺の地域の人々の願いは、再び、大山川が洪水を起こさないように、大山川の改修をしてほしいということだった。そして、そのような地域の要望を比叡山延暦寺の天台座主に聞いてもらうことが、今回、玄法上人が「御衣加持御修法」に参加したもうひとつの目的だった。

 ところで、人類による河川の改修などの治水事業の歴史は古く、日本では、弥生時代の遺跡から、河川の改修工事の跡が見つかっている。そして、古墳時代には、大和朝廷による大規模な河川改修事業が展開された。奈良時代に入ると、律令国家のもとで、治水は、国司や郡司の主要任務であり、河川の洪水によって水害が発生して、国司や郡司では対応が難しい場合、中央から特使が派遣されて、国家直営の治水対策が実施されることもあった。

 しかし、このような国家の体制も平安時代中期頃から形骸化し始め、律令国家の治水事業は衰退していった。その後、律令国家に代わって、治水事業を担っていったのは、地方のお金持ちたちであった。

 そして、玄法上人のいる大山寺の時代(平安時代末期)になると、新たな治水事業の担い手として、東大寺や西大寺などの勧進僧たちが登場する。東大寺や西大寺などの勧進僧たちは、勧進活動の一環として、河川の改修事業にも取り組むようになったのである。

 話を「御衣加持御修法」での玄法上人に戻そう。とうとう、玄法上人は、我慢ができず、祈祷の合間の休憩中に、隣にいた僧侶に愚痴をこぼしてしまった。

 「確かに、ここにいる僧侶たちの全ての地元が洪水の被害にあっているわけではないことくらい私もわかっている。しかし、去年の9月に行玄大僧正とその弟子たちが「五壇法」を修して、雨を止めたまさにそのとき、私の地元の大山川は決壊して、多くの人の命が失われ、多くの人が家を流された。

 行玄大僧正とその弟子たちが「五壇法」を1回修しただけで、雨がやんだのは、ただの偶然だ。

 久安元年に彗星が来た時、私もおびえていたが、私と同じように、ものすごくおびえていた比叡山の僧侶たちを覚えている。彗星におびえて、大勢の僧侶たちは、経をひたすら唱えていた。そんな行玄大僧正たちに雨を止める力などあるわけがない。

 大雨が降るたびに雨を止めるお祈りをする時間と人があったら、その時間と人を使って、川を掘ったり、川幅を広げたり、堤を高くしたり、増水した川の水をためる池を造ったりしたほうがいいのではないか。」

 隣で玄法上人の愚痴を聞いたその僧侶は、すぐに、立ち上がり、何も言わず、どこかに行ってしまった。そして、玄法上人の隣にいた僧侶の代わりに、後ろで玄法上人の愚痴を耳に入れていた僧侶が、玄法上人に小声で話しかけた。

 「あなたの気持ちはとてもよくわかる。なぜなら、私も以前、今回のあなたと同じ目にあったことがあるからだよ。でも、気をつけた方がいい。今、比叡山の僧侶たちの中には、自分たちの批判をした者には、武力で言い返すことをする者たちが暗躍しているという話だ。天台座主でさえ、その者たちの批判をすると、命を狙われるかもしれないというのが、今の比叡山の裏の姿だ。

 彼らは、なぜか、いつも、ターゲットを探している。私も以前、恐ろしい目にあった。寺が放火され、危うく、死にかけるところだったよ。御所は、彼らの横暴から身を守るために、武士を雇ったのだ。」

 玄法上人の耳元でこうささやいた僧侶も、いつのまにか、その場を立ち去ってしまった。

 武道の達人だった玄法上人は、大山寺のトップの僧侶になった時、大山寺にあった製鉄所を更に拡大し、武器を生産して、今で言う警察組織のような僧兵組織を作ることに力を入れていた。そして、玄法上人の作り上げた大山寺の僧兵組織は、篠岡丘陵にある窯元や窯元で働く人々の家族が住んでいる所などの地元の治安を維持していたという自負もあった。

 だから、玄法上人は、後ろで玄法上人の愚痴を耳に入れていた僧侶からの忠告を聞いても、行玄大僧正ら比叡山のトップの僧侶たちに、玄法上人の地元の洪水の話をして、大山川の改修をお願いしたいという気持ちに変わりはなかった。「御衣加持御修法」の行事が終わり、僧侶たちが一斉に地元に帰っていく中、玄法上人は、天台座主である行玄大僧正らに面会を申し出た。

 さて、天台座主である行玄大僧正と玄法上人の面会をする部屋の中には、行玄大僧正ともう一人、「雲玄」という名の僧侶がいた。雲玄こそ、祈祷の合間の休憩中に玄法上人の隣にいて、玄法上人の愚痴を聞いてどこかにいなくなった僧侶その人だった。雲玄は、立派な僧兵組織を地元で作り上げているという玄法上人の噂を聞いた天台座主の行玄が、玄法上人を見張るために、玄法上人の隣に座らせた僧侶だった。

 「今から、さっき、私が申し上げたことを言っていた玄法上人がこの部屋に入ってきます。私は、隠し扉の向こうで、隠れていますので、行玄大僧正は、玄法上人と二人でお話しください。」

 雲玄は、このように言うと、隠し扉の向こうに身を隠した。

 何も知らない玄法上人は、天台座主の行玄との面会の部屋に入ると、まず、天台座主行玄に一礼した。天台座主行玄も玄法上人に礼を返した。

 玄法上人は、昨年の9月の終わりの大雨のために地元の大山川が決壊して、多くの家が流され、多くの人が犠牲になったことを天台座主行玄に告げた。そして、玄法上人のいる大山寺の地元の人々は、皆、大山川の改修を望んでいることを告げた。

 天台座主行玄は、玄法上人にこう返事した。

 「それは、大変なことでした。しかし、比叡山延暦寺に大山川の改修をする力がないことは、大山寺のあなた方と同じなのです。だが、私たちには、大山川の改修以外に、何か地元の人々のお役にたてることがあるかもしれません。とりあえず、今は、地元の人々のために、食料や農機具や衣服を、僧侶たち10人くらいにたくさん持たせますので、その者たちと一緒に大山寺に帰ってください。そして、玄法上人と一緒に大山寺に行く10人の僧侶たちに大山川の現場を見てもらい、私たちに何かできることはないか、考えてもらいましょう。その10人の僧侶たちのリーダーの名前は、「雲玄」と言います。」

 このようなわけで、玄法上人ら大山寺の僧侶たちと、雲玄たち比叡山の僧侶たちと、食料・農機具・衣服を運ぶ人々の長い列が、比叡山から大山寺に向かって歩いて行った。そして、雲玄たち比叡山の僧侶たちが、大山川の現場を確認して洪水の対策を考える役割のほかに、大山寺の僧兵組織をつぶさに観察して、天台座主行玄にひそかに知らせる密偵の役割も果たしていたことを、玄法上人ら大山寺の僧侶たちは、知る由もなかった。

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