七 廃藩置県

 上末村のことがあってから1年間、尾張藩家臣の青木平蔵と犬山藩成瀬家家臣の石川喜兵衛は、入鹿池の底に生えていた白い木の根っこのある場所について、いろいろ文献を調べてみたけれども、大した収穫は得られなかった。そして、明治3年(1870年)8月31日の午前中、名古屋城に勤務していた尾張藩家臣の青木平蔵は、名古屋城本丸御殿の中の1つの部屋に呼び出された。

 「失礼します。」

 と言って、ふすまを開けた青木の目に飛び込んできた光景は、上司である尾張藩主徳川義宣が一段高い畳の真ん中に正面を向いて座り、一段下の畳で横を向いて座っている犬山藩主成瀬正肥とその隣で横を向いて座っている石川喜兵衛の姿だった。石川は、こちらを向いて、青木の姿を確認すると、少しばつの悪い顔で、また、横を向いた。

 青木が一段下の畳の尾張藩主徳川義宣の正面に座ると、尾張藩主徳川義宣は、青木にこう言った。

 「先日、明治政府内務省役人の林正三郎と名乗る男が、兵隊を10人くらい引き連れて名古屋城に来た。そして、尾張藩事の私に対して、大久保利通参議からの書状を読み上げていった。来年の明治4年、尾張藩と犬山藩はなくなり、三河藩と合併して、愛知県となる。尾張藩事の私と犬山藩事の成瀬は、華族という身分を与えられて、家族と共に東京に住むことを強制されている。愛知県には、明治政府から新しく愛知県知事が任命されて、赴任することになっている。もし、この命令に従わない場合には、明治政府が持っている一万の兵隊が愛知県に攻めてくるのだそうだ。」

 「あいつら、やくざのお礼参りより怖いな。」

 青木は、ぽつんとこぼした。尾張藩主徳川義宣は、青木に続けてこう言った。

 「ところで、青木と石川は、入鹿池の底で見た白い木の根っこのある場所を探して、いろいろ調査をしているらしいな。何か有力な情報を手に入れることができたか?」

 こう聞かれた青木は、首を横に振った。すると、尾張藩主徳川義宣はこう言った。

 「このことは、そんなに簡単につきとめられることではないのだ。しかし、私が止めても、君たちは、調査を続けて、いつかは、たどり着くことができるだろう。だが、君たちには、私から言っておきたいことがある。

 江戸幕府を造った徳川家康が政治をしていく上で、重要課題としていたことがあるが、君たちにはそれが何だかわかるか?」

 こう聞かれて、青木は首を横に振って、「わかりません。」と言った。すると、尾張藩主徳川義宣はこう言った。

 「徳川家康が政治を行う上で、最も課題としていたことは、内戦の防止だ。徳川家康は、戦国時代を生き残って、天下統一を果たした戦国武将だ。戦国時代、日本は各地で武将が群雄割拠していて、お互い、領地の争奪戦をし合い、日本は内戦状態だった。武将だけではないぞ。日本各地では、様々な宗教団体が、自分たちの存在をかけて、一揆を起こし、武将たちの敵となって戦った。そんな内戦状態の日本を一つにまとめ、平和な日本を取り戻そうとしたのが、織田信長であり、豊臣秀吉であり、徳川家康であった。だから、徳川家康が天下統一を果たして、日本を江戸幕府のもとで治めることになった時、徳川家康は、国が再び内戦状態に陥いれられることのないように、政治を行っていった。

 この考え方は、江戸幕府が滅びて、明治政府ができたとき、明治政府に引き継がれていった。江戸幕府が素直に明治政府に政権を渡したのは、日本が再び内戦状態になることを避けるためだ。内戦の恐ろしさは、経験した者でなければわからないからな。こういう私も内戦とはどういうものなのか知らないのだが。」

 尾張藩主徳川義宣はここまで言うと、青木と石川を見た。そして、「私の話は、お前らの耳を右から左に抜けていっているんじゃないだろうな。」とぽつりと言って、青木にこう聞いた。

 「ところで、先ほども言った通り、尾張藩と犬山藩はなくなって、愛知県となり、新しい愛知県知事が明治政府より派遣される。私も君たちの前からいなくなる訳だけれども、君たちは、今後、どうしていくつもりなのかね?」

 そう聞かれて、青木は、石川と顔を見合わせ、

 「そんなこと、突然言われても、わかりません。」

 と言った。すると、尾張藩主徳川義宣は、こう言った。

 「そうか。恐らく、青木と石川の選択肢は2つ。1つは、新しい知事の下で愛知県職員として働くこと。もう1つは、今の立場を捨てて、新しい仕事に就くことだ。青木と石川の場合は、このまま今の立場に残っても、辛いだけなのではないかな。それに、大山廃寺跡であのようなことを起こしておいて、明治政府から新しく派遣された知事が青木と石川に良い待遇を与えるとはとても思えないのだが。」

 尾張藩主徳川義宣がこう言うと、青木は、こう答えた。

 「やってみないと全く何もわかりません。」

 青木と石川は、これからどういう状況が自分たちに襲いかかってくるのか、見当もつかない、といった感じだった。尾張藩主徳川義宣は、青木と石川にこう提案した。

 「富国強兵・殖産興業というのが、新しく日本を運営していく明治政府のスローガンだ。富国強兵というのは、外国との戦争や内戦に対処するために、強い軍隊を造るという政策。殖産興業というのは、今まで封建的な体質だった農業・漁業・工業・商業など全ての産業を近代化して、誰でも、産業を行えるようにし、外国とも渡り合っていけるような産業にして、みんなで金もうけしようという政策だ。これからは、国で働くよりも、民間で働いた方が、良い暮らしができるかもしれないぞ。一生懸命がんばれば、その分、お金がもらえるようになるからな。

 新しく国を造っていく愛知県職員は、意外に、大変かもしれない。これから、どういう世の中がくるのか、全く見当もつかないし。それに、青木と石川は、入鹿池の底で見た白い木の根っこのある場所にたどり着きたいんだろう?仕事をしながら、それもできるという仕事があるのだけれど、興味はないか?白い木の根っこのある場所の調査はなかなか進んでないのだろう?」

 「えっ、そんな仕事があるんですか?」

 青木は、尾張藩主徳川義宣の話に飛びついた。尾張藩主徳川義宣は更にこう言った。

 「青木と石川が大山廃寺跡で会った江岩寺の中村住職とは、以前、私も話をしたことがあってな。江岩寺の中村住職は、今の青木と石川にぴったりの仕事があると言っていたが。1週間後位に、一度、江岩寺の中村住職に会って、仕事の話を聞いてみたらどうだ?私個人としても、入鹿池の底にある白い木の話は、後世につないでいきたいと思っているし。」

 青木と石川は、尾張藩主徳川義宣に背中を押されたような感覚があった。

 そして、1週間後の、明治3年(1870年)9月中頃、尾張藩家臣の青木平蔵は、尾張藩主徳川義宣に対して、脱藩届けを出し、犬山藩成瀬家家臣の石川喜兵衛は、犬山藩主の成瀬正肥に対して、脱藩届けを出した。そして、青木と石川は、まげをおろして、散切り頭になり、着物と袴を脱いでシャツとズボンの洋装に着替え、刀を藩に預けた。青木と石川は、武士を辞めて、他の仕事に就く決意を固めたのだった。そして、2人は、江岩寺の中村住職のもとを訪れた。

 明治4年(1871年)8月29日、尾張藩は名古屋県となり、犬山藩は犬山県となった。同年、犬山県は名古屋県と合併し、明治5年(1872年)4月には、名古屋県と額田県が合併して、愛知県が誕生した。そんな状況のもと、青木と石川は、中村住職の知恵を借りて、新しい仕事に従事していくことになる。

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