七 文部省史跡名勝天然記念物調査会考査員

 「小栗さんが引き受けてくれた愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の仕事は、なり手がなくて、困っていた。特に、考古の分野を担当してくれる人がみつからなくてね。よく引き受けてくださいましたね。」

 昭和3年(1928年)4月の春らしいある一日、文部省史跡名勝天然記念物考査員の柴田常恵は、愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎と共に、大山廃寺跡の中の「あぶらしぼり」を塔跡まで登りながら、鉄次郎にこう話しかけた。

 「柴田先生がいらっしゃったからですよ。」

 柴田常恵にこう返した47歳になる鉄次郎は、茶色いスーツに白いシャツ、黒い細いネクタイを締め、黒い革靴を履き、グレーの山高帽をかぶっていた。鉄次郎の隣には、濃いグレーのスーツに青いネクタイを締め、革靴を履き、黒い山高帽をかぶった柴田常恵がいた。柴田常恵は、鉄次郎より4つ年上で、51歳になる。柴田も小栗も、「あぶらしぼり」を塔跡まで登りながら、息を切らさないではいられなかった。

 4月になると、大山寺跡のある山の中は、ツバキの花や木蓮の花、山桜が咲き乱れ、とてもにぎやかになる。しかし、今、柴田常恵と小栗鉄次郎が登っている「あぶらしぼり」は、相変わらず、雑木が生い茂る静かな空間だった。しかし、小栗鉄次郎と同じように、柴田常恵も「あぶらしぼり」を歩いている間中、靴の下にある土の中に何か違和感を感じていた。柴田には、「あぶらしぼり」の土の下に遺跡が眠っていることが透けて見えていた。この静かな空間の中で、柴田常恵と小栗鉄次郎が息を切らして話す話し声は、とてもよく周囲に響いていた。

 5分ほど「あぶらしぼり」を登って、塔跡に着くと、鉄次郎は、柴田を、2月に発見した17個の塔の礎石がある所まで案内した。柴田は、8m四方の正方形に掘った2mほどの深さの穴の中にある17個の塔の礎石を見下ろしながら、鉄次郎をねぎらった。

 「よく、ここまで尽力してくださいましたね。ここは、間違いなく、国の史跡に指定されるでしょうね。」

 その後、鉄次郎は、柴田を案内して、塔跡の背後にある山の、何となくあるような気がする道を登って行った。5分ほど登ると、頂上に行く道の途中に、人が一人寝ることができるような大きさの石棺のような塚がある。鉄次郎は、その塚を指して、こう言った。

 「江岩寺住職によると、江岩寺にある、鋳鉄製で高さ約9.7cm、舟形光背を持つ半肉彫立像の千手観音像は、ここから、見つかったものだそうです。」

 そして、鉄次郎と柴田は、その塚から5分ほどでかけて、頂上まで登り、一服した後、今まで登ってきた道と反対の方向に、スロープを滑る様に下りて行った。腰をおろして滑って行ったが、枯れ葉がクッションとなっていて、意外に安心して滑ることができた。10分ほどでスロープを滑り下りると、そこは、すり鉢の底のような場所で、曲がりくねった1本の道が鉄次郎たちをその先に案内していた。

 「ここは、地元の人々が「本堂が峰」と呼んでいる場所です。このあたりは、平安時代の末期頃、大山寺の本堂があった場所だと言われていて、児神社の縁起によると、「本堂は十二間四面(21.72m四方)、三十間(54.3m)の廻廊、弓手妻手(左右)に堂数十八、前に五重塔あり」と伝えています。」

 鉄次郎は、柴田にこのように説明すると、先に見える曲がりくねった道のように見える道を進んで行った。その道の左右には、至る所に平地があり、土の色が周囲とは変わっている所もあった。そして、道のように見える道に沿って、20分ほどまっすぐ進むと、左手に滝を眺めながら、大山不動の裏に着いた。

 「このような場所は、この山の中には、無数に残っているのです。この山全体が、風致保安林(名所や旧跡、趣のある景色などを維持・保存するため、伐採や土地の転用の変更などをできるだけ制限し、適切に手を加えることによって、期待される森林の働きを維持しようとするもので、農林水産大臣または都道府県知事によって指定され、免税や補助金・融資等の優遇措置が取られている。)に指定されていますからね。」

 鉄次郎が柴田にこう話すと、柴田は鉄次郎に聞いた。

 「ところで、これらを国の史跡に指定するとなると、指定範囲を決めなければいけないのだけれど、小栗さんは、史跡の指定範囲については、どのように考えているのですか?」

 すると、鉄次郎は、柴田にこう答えた。

 「児神社の縁起によれば、大山寺が「大山峰正福寺」と名乗っていた平安時代末期頃は、「西の比叡山、東の大山寺」「大山三千坊」と言われるほどの天台宗第一の巨刹だったそうです。ですから、国の史跡の指定範囲は、最低でも、この山の中まるごとといったところでしょうか。」

 すると、柴田は答えた。

 「わかりました。小栗さんには、できるだけ早く、調査報告を書いていただきます。それをもとにして、文部省史跡名勝天然記念物審議会の方で審議します。これだけの遺跡ですから、調査報告も相当分厚くなるでしょうが、よろしくお願いします。」

 そして、小栗は、柴田を名古屋駅まで送って行った。小栗も柴田も、大山廃寺跡を出るときには、スーツに付着した雑草やら雑草の種やらをできる限り取り除いたつもりだったが、名古屋駅のホームに立つ二人の服は、どう見ても、汚れていた。

 文部省史跡名勝天然記念物考査員の柴田常恵が、大山廃寺跡から東京に帰ってくると、東京は、静かな大山廃寺跡とは打って変わって、騒がしい雰囲気だった。昭和3年(1928年)2月に行われた第1回衆議院普通選挙によって、労働組合の組織化や小作権の確保・中国への侵出反対を唱えた無産政党は、49万票を獲得し、8名の議員を政界に送った。そのため、政府は、労働者や農民大衆の反戦運動と左翼的活動の発展に対処するため、共産主義者を全国的に検挙し、労働農民党や労働組合、無産青年同盟の解散を命じた。6月には、治安維持法を改正して、特別高等警察課を設置するという話もある。政府が社会運動の弾圧の強化を推進するたびに、世の中はどんどん騒がしくなる。いっそのこと、政府が社会運動を受け入れてくれれば、東京も静かな地になると柴田は思う。しかし、文部省史跡名勝天然記念物考査員の柴田常恵が、遺跡調査した先から東京に帰ってくるたびに、東京のこの騒がしさが度を増していると柴田は感じていた。

 昭和3年(1928年)6月の朝、文部省史跡名勝天然記念物考査員の柴田常恵のもとに、愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎から、「大山寺跡」の調査報告書が届いた。その報告書は、地図や図を含めて30ページほどあり、鉄次郎が発見した17個の塔の礎石の詳しい記述のみならず、大山寺の詳しい由来や言い伝えの紹介、言い伝えに基づき鉄次郎が調査した場所の現状が詳しく記述されていた。柴田は、小栗が書いたこの調査報告書を持って、さっそく、東京帝国大学教授である黒板勝美のもとを訪れた。黒板勝美は、柴田常恵より3つ年上で、今は、54歳になる。昼過ぎに、白い長袖のシャツにグレーのベストを着て、グレーの長ズボンをはき、青い細いネクタイを締めた柴田が、東京帝国大学の黒板勝美の部屋を訪れると、黒板勝美は、紺色の着物に黒い袴をはいて、白い足袋と青い草履を履いたかっこうで、部屋の中にいた。柴田は、黒板に会うと、堰を切ったように、こう尋ねた。

 「これは、愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎さんから届いた大山廃寺跡の調査報告書なのだが、特に、この大山寺の詳しい由来や言い伝えについて書かれたページを見てほしい。大山寺にふりかかったこの出来事が、果たして、真実であるかどうか、黒板先生にお聞きしたい。黒板先生は、この大山寺の言い伝えに見える出来事が起こったとされた平安時代末期の書物の編纂を行っていると聞いている。どうですか。先生の研究されている書物の内容と、この大山寺の言い伝えの内容とは、ぴったり合いますか?」

 黒板勝美は、小栗の書いた調査報告書を一読して、次のように言った。

 「そうですね。私が編纂のために研究した歴史書に、「本朝世紀」という、平安時代末期の権力の側にいた信西と言う者が書いた日記と、「台記」という、平安時代末期に起こった保元の乱で敗れた藤原頼長と言う者が書いた日記があります。大山寺の言い伝えは、まさに、「本朝世紀」や「台記」の書かれた時代背景と、ぴったり符合します。書物を見る限り、大山寺の言い伝えは真実であると考えても差し支えないのではないでしょうか。そして、このような言い伝えを持つ大山寺という寺が残っているとしたら、書物の史実を証明する重要な寺ですので、さっそく、保護に乗り出すべきだと思いますが。」

 黒板がこう言うと、柴田は、黒板に質問した。

 「ところで、大山寺の言い伝えによりますと、大山寺は、「大山三千坊」とも言われるほど巨大な山岳寺院だったようです。国の保護をかけるとすると、史跡の範囲をどこまでにするか、という問題が出てくるのですが。大山寺の言い伝えが真実だとすれば、少なくとも、大山寺が存在していた山全体を史跡とする必要があります。このことについて、先生は、どう、お考えですか?」

 すると、黒板は、柴田のこの言葉に驚いて、しばらく、黙りこくってしまった。黒板と柴田のいる研究室は、突然、音のない空間になった。そして、5分ほどの時が流れ、黒板が重い口を開いた。

 「我々は、大正8年(1919年)に史跡名勝天然記念物保存法という法律を作るために、とても情熱を傾けてまいりました。しかし、我々の情熱とは裏腹に、なぜ、史跡名勝天然記念物保存法という法律が必要なのか、という声が現実としてある。特に、銀行や会社の倒産が相次いだ最近は、その声が顕著に我々に届いてきている。儲からないものを保護していいのか、というのだ。人々の心は、まだ、完全に我々と一致するという段階までいっていないのが現状かもしれません。我々は、法律の施行を急ぎ過ぎたのでしょうか?しかし、そんなことも言っていられません。史跡名勝天然記念物保存法は、子子孫孫まで伝えていかなければなりません。

 ところで、治安維持法が改正されて、社会運動の弾圧は、一層、激しさを増すようだ。政府は、国体(天皇制)を変革するという主張を持つ共産主義思想そのものを取り締まらなければならないからと説明しているが、どのような事例によって、その人間が国体(天皇制)を変革しようとしていると判断するのか、どのような判断基準で、その人間が共産主義者であると決めつけるのか、そのへんがあいまいなのだ。そして、国体(天皇制)変革者や共産主義者の基準をあいまいにしたままで、政府は、「特別高等警察」という組織を政府内に作って、社会運動の取り締まりを強化しようとしている。

 「なぜ、史跡名勝天然記念物保存法という法律が必要なのか?儲からないものを保護していいのか?」という声なき声が、我々を共産主義者や国体(天皇制)変革者と同じと決めつけたとき、我々は、「特別高等警察」による取り締まりを受けなければならないのか?この大山寺の言い伝えのある平安時代末期、天皇制は崩壊して、武士の世の中に移行していった。天皇制が崩壊していった時代の遺跡を保護しようと言っただけで、我々が国体(天皇制)変革者であると決めつけられる恐れはないのか?」

 「つまり、今、我々が生きている世の中は、余りにも、理想と現実の差が激しすぎる、ということですか?保護すべき遺跡が保護できなくなるのであれば、史跡名勝天然記念物保存法の存在している意味がありませんよ。」

 柴田は、黒板にこう言ったが、黒板は、うつむいたまま、一言も言葉を発しなくなってしまった。

 結局、大山寺の言い伝えは真実であったことはわかったものの、現実は、それほど甘くはないな、というのが、柴田が黒板から受けた答えだった。「私たちの税金を、遺跡保護のために、湯水のように使っていいのか。それで、私たちの生活は楽になるのか。」という世間の声なき声が、柴田を取り囲んでいるような気がしていた。文部省史跡名勝天然記念物考査員の柴田常恵が、大山寺の史跡範囲を山全体に指定すれば、その通りに、事は運んでいくだろう。柴田常恵は、文部省史跡名勝天然記念物考査員という肩書だが、実質的には、審議委員そのものであった。

 そして、柴田は、愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎に指示を出した。

 「愛知県知事に会って、大山寺跡を国の指定史跡にする旨の説明をし、愛知県の同意を得てください。」

 愛知県史跡名勝天然記念物調査主事の小栗鉄次郎は、さっそく、鉄次郎が書いた30ページほどの大山寺跡の報告書を持って、愛知県知事のもとを訪れた。

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