八 大山焼を作る

 明治3年(1870年)9月中頃、散切り頭にハンチング帽子をかぶり、シャツを着て、ズボンと革靴を履いた青木平蔵と石川喜兵衛は、身のまわりの物を入れたかばんを左手に持ち、右手に江岩寺の中村住職から借りた行燈を持って、大山村の江岩寺を訪れた。

 「これ、ありがとうございました。」

 江岩寺の中で中村住職に会うと、青木と石川は、持っていた行燈を中村住職に差し出した。しかし、中村住職は、2人にこう言った。

 「いえ、いえ、その行燈は、退職祝いとして、お二人に差し上げます。持っていたら、何かの役に立つこともあるでしょう。あと、お二人には、大山村に新しい住居を探してもらわないと。この寺の雑用係である倉田トメさんの実家の隣が空き家になっているそうですよ。当分は、そこに寝泊まりしたらどうでしょう。」

 中村住職に案内されて、その空き家に向かった青木と石川は、家の中をシェアして、空き家に住むことに決めた。そして、生活の基盤を大山村の中に確保した青木と石川は、家賃を払うために、仕事をみつけなければならなかった。江岩寺の中村住職は、青木と石川にこう言った。

 「2年前に、入鹿池の杁堤が決壊した時、私は、ボランティアとして、被災地に入りました。そして、家族を亡くした被災者の方々の相談にのっていたのですが、家族を亡くした人々の中には、その悲しみを乗り越えるために、今まで住んでいた所を離れ、仕事をする場所も変えたいと願う人が結構多かったのです。そのような人々の中に、犬山焼という陶器を作る陶磁職人の方がいたのですが、その人は、陶磁職人としての技術は持っているのだけれども、入鹿切れで妻子を亡くし、途方に暮れているのです。そして、その職人さんは、自宅から、毎日、大山連山を越えて、この江岩寺に来て、何か新しい再出発の道がないか探しているのです。明日も、その人がここに来るでしょうが、一度、会ってみませんか?

 陶器を作る窯を開いて陶器を焼き、焼いた陶器を売買して商売をするという仕事は、ちょっと前までは、特定の身分の人が握っていた特権でした。しかし、明治維新があって、殖産興業の名のもとに、明治政府は産業の近代化を図る一環として、陶器を焼き、焼いた陶器を売買する特権制度を撤廃して、誰でも窯を開いて商売ができるようにしたのです。陶器を作って焼くという仕事は、確かに、技術を伴う仕事ですが、陶器を作るための土や染付の材料を手に入れたり、作った陶器を売るといった仕事は、技術を伴う仕事ではないので、青木さんや石川さんにもできますよ。

 それに、今、詳しい話をする時間はありませんが、この大山村は、入鹿池の底に生えていた白い木の根っこのある場所に到達するための基幹の場所であることは確かです。切れた入鹿池杁堤の復旧工事は、尾張藩の後を継いで、愛知県が手掛けることは、確実ですから、入鹿池は、また、元通りの大きな池になります。従って、白い木の根っこのある場所にたどり着く方法はただ一つ、地下トンネルをみつけることです。陶器を作る土を採集する名目で、トンネル探しをすることは可能だ。

 それに、白い木の根っこのある場所の話は、とても1時間や2時間で話しつくせるものではない。毎日顔を合わせて、一緒に仕事をしながら、長い時間をかけて、少しずつ、伝えていくという、青木さんや石川さんの想像を絶するほどの壮大なストーリーが、白い木の根っこのある場所にはあるのです。

 どうですか、陶磁職人さんに会ってみる気持ちはありますか?」

 そして、その翌日、江岩寺の中村住職は、江岩寺を訪れた陶磁職人の稲垣銀次郎という30歳代の男を20代の青木と石川に引き合わせた。3人は、お互い自己紹介をし、青木と石川は、稲垣に、

 「私は、武士を辞めて、次の仕事に就いて、生きていかなければならない。ぜひ、稲垣さんの持っている知識を私たちにも分けてください。」

 と言った。人生の再出発の道を探っている点では、青木も石川も稲垣も同じだったので、3人は、すぐに、意気投合することができた。

 江岩寺の中村住職と陶磁職人の稲垣銀次郎は、1年ぐらい前から、仲間ができたときにはいつでも窯が開けるように、大山村の中に家を借りて、少しずつ、陶器を作る道具を揃え、陶器を焼く登り窯を作ってきた。そして、青木と石川という2人の仲間ができた今、いよいよ、窯を動かす時がきたのだった。稲垣は、中村住職が収集してきたという粘土を住職から渡されて、陶器を作ることは全くの素人である青木と石川の前で、犬山焼を作り始めた。

 1つの陶器を作るのは、1カ月近い時間がかかる。青木と石川は、稲垣が粘土をこね、土を成形し、乾かし、焼き、絵付けをし、また焼くという一連の作業を見学するかたわら、農家でアルバイトをしたり、江岩寺で薪割りなどの仕事をしたりして、当面の生活費を稼ぐことにした。

 そして、青木と石川が、大山村の農家で、稲刈りのアルバイトをするかたわら、また、江岩寺で、薪割りや炭を焼く仕事をするかたわら、大山村の村人や江岩寺の中村住職や奥さんのふねさんや雑用係の倉田トメさんがする話は、大山廃寺の言い伝えの話だった。

 「大山村は、大山連山のふもとにある村だけれども、昔、延暦年間(8世紀末から9世紀初め)に伝教大師(最澄)がこの地に来て、大山連山の山の中を切り開いて、小さな山寺を建て、「大山寺」と名付けた。しかし、その後、伝教大師(最澄)はどこかに行ってしまい、大山寺はしばらく断絶した。

 そして、永久年中(12世紀)、今度は、比叡山天台宗法勝寺から玄海上人という名の住職が来て、大山寺を再興した。玄海上人のおかげで、大山寺は、天台宗第一の巨刹となり、大山峰正福寺と名前を改めた。そして、大山峰正福寺は、寺の活動を盛んにして、近隣の寺社をことごとく傘下とし、「大山三千坊」と言われるほどになった。

 時に、美作国(現在の岡山県東北部)に住む平判官近忠という名の武道の達人が俗世間を逃れて仏門に入った。平判官近忠は、弓や刀を捨てて仏道に志し、世の中の穢れた風潮から離れて、お経を追求することを友として、野宿をしながら諸国を歩き回り、大山寺のあるこの地にたどり着いた。

 そして、平判官近忠は、玄海上人の弟子になることを願い出た。すると、玄海上人は、平判官近忠の願いを快く受け入れ、平判官近忠の髪の毛を剃り、僧衣を与えた。平判官近忠は、喜んで、修業に没頭し、難しい仏法をことごとく学び、すぐに覚えたので、玄海上人は、「これは普通の人間の及ぶところではない。」と平判官近忠を賞賛して、平判官近忠に「玄法上人」という名前を授けた。

 その後、玄海上人が亡くなると、玄法上人が大山峰正福寺の住職となって跡を継いだ。玄法上人は、博識秀才だったので、大山峰正福寺の近隣の国に住む者たちは、こぞって、自分の子息を大山峰正福寺に修業に出した。大山峰正福寺に修業に来た子息たちの中には、三河の国の牛田という名の子供や近江の国の佐々木という名の子供のように、一を聞いて百を察し、暗記モノもすぐに覚え、理に通じ、勉強が好きで、常に勉学に励むような優秀な子息たちもいた。

 ところが、近衛天皇の時代(12世紀の中ごろ)に、大山峰正福寺は、近衛天皇の勅願の儀について比叡山と法論を生じた。そして、仁平2年(1152年)3月15日、ついに、比叡山の僧兵たちが一揆を起こして、大山峰正福寺に押し寄せ、大山峰正福寺の数坊に火を放った。大山峰正福寺の僧兵たちは、比叡山の僧兵たちと戦ったけれども、玄法上人は、本堂に座ったまま、指揮をせず、火が収まるように念じているうちに、煙に巻かれて、命を終わらせた。大山峰正福寺に修業に来ていた優秀な子息であった三河の国の牛田という名の子供や近江の国の佐々木という名の子供も気が動転して、炎の中に駆け込んでいった。そして、大山峰正福寺の大伽藍は全て残らず、焼失した。

 その後しばらくして、近衛天皇の病気が重くなり、どの医者に診せても治らなかった。その頃、御所内裏の清涼殿に夜な夜な異形の化け物が現れ、御所に集まる殿上人を驚かせていた。それで、殿上人は話し合って、占いの安部氏に相談した所、安部氏は、「これは、大山峰正福寺で焼け死んだ僧侶の崇りで、異形の化け物は、焼け死んだ僧侶たちの魂であるので、とにかく、誰かに射させるべきである。」と言う。殿上人たちは、話し合って、「それなら、弓の名人の兵庫頭頼政に射させるのがよい。」ということになり、兵庫頭頼政を御所紫宸殿に呼び寄せた。

 兵庫頭頼政は、家臣の井の半弥太を引き連れて、紫宸殿に入り、異形の化け物が現れるのを待った。そして、夜も深く更けた頃、陽明門の寅の方角(東北東)より、鵺のような声を発しながら、光りながら渡ってくるものがあった。兵庫頭頼政が、そのものに向かって矢を放つと、矢はその化け物の真ん中を射ぬき、その化け物は、庭の上にどっと落ちた。家臣の井の半弥太が松明を振り上げて見て見ると、その化け物は、胴は虎、尾は蛇の形をしていた。兵庫頭頼政家臣の井の半弥太は、「おのれ、曲者よ。」と言って、その化け物をさし、息の根を止めた。

 しかし、異形の化け物を退治しても、近衛天皇の病気は治る気配がない。殿上人たちは、再び話合い、今度は安部清業と言う者に相談してみることにした。安部清業は、しばらく考えた末、「これは、大山峰正福寺で焼け死んだ児法師(寺に修業にきている子供たち)の一念であるので、大山峰正福寺で焼け死んだ児法師(寺に修業にきている子供たち)の魂を供養するために神社を建てれば、近衛天皇の病気も快方に向かうでしょう。」と言った。

 それで、殿上人たちは、鷹司宰相友行を勅使として、大山峰正福寺の跡地に向かわせ、久寿2年(1155年)11月16日、鷹司宰相友行は、大山峰正福寺の跡地に神社を建立した。そして、焼け死んだ児法師(寺に修業にきている子供たち)を祀り、神官や巫女を置き、子供の命が長く続くように守る神様となるべく、その神社を児神社とした。そして、近衛天皇の病気は治った。

 近衛天皇の病気が治ったことにより、児神社は多くの社領地を付けられ、年に六度の祭が行われ、二度の祭で繁盛の地となった。その後、鷹司宰相友行は、お礼として、児神社のある地を訪れ、大山不動に参詣し、3つの滝を「金剛の滝」「胎蔵の滝」「王子の滝」と名付けて、次のような歌を詠んだ。

 「君がため 滝の白いと結び上げ 千代万歳といほう神風」

 そして、鷹司宰相友行は、焼け落ちた大山峰正福寺の大伽藍の跡の大きさは次のようであったと伝えた。即ち、本堂は、十二間四面(21.72平方メートル)、三十間(54.3m)の廻廊の左手右手には、お堂の数が18あり、前に五重塔があった。その中の、弥勒菩薩は焼けなかった。太鼓堂、鐘堂も焼け残った。児神社は、勅使である鷹司宰相友行が都に帰った後も、神徳を称し、霊験新かにして、全ての罪のない者を守り給う。」

 大山廃寺の地元である大山村の人々が、このような言い伝えを青木と石川に話し終えた頃、陶磁職人の稲垣銀次郎が作った犬山焼が完成した。白い磁器に鳥と花の赤絵を描きこんだ10個の茶碗が十分に時間をかけて冷まされ、窯の中から出された。窯から出された10個の茶碗を前に並べて、稲垣は、その場にいた青木と石川と江岩寺の中村住職にこう言った。

 「この焼き物は、中村住職が収集した大山村の土で作った焼きものですので、「大山焼」と名付けて売ったらどうでしょう。」

 「大山焼か。」

 青木と石川と中村住職は、口々にこう言った。そして、その後、青木と石川と稲垣は、大山焼でお金を儲けるための役割分担を話し合った。

 大山焼でお金を儲けるためには、できるだけ安くて美しい焼きものをできるだけ大量に作ることが必要である、ということが、青木と石川と稲垣の一致した考え方であった。そのためには、陶磁器を作る材料費をできるだけ抑えるのはもちろんのこと、青木と石川も大山焼を作る技術を習得しなければならない。稲垣一人では、大量生産は難しいからである。

 「大山焼を作るための粘土は、大山村の中で探して見つけてくることとして、絵は苦手なんだよな。稲垣さんのように鳥や花をうまく描くことができないんだよ。」

 青木がこう言うと、石川も「私もそうだ。」と言った。すると、稲垣がこう言った。

 「それでは、焼き物の図案は、誰でも速く描けるように、できるだけ簡単でかつ美しい図案を考えてみます。私が図案を考えている間、青木さんと石川さんは、できるだけ大量の粘土を探してきてくれませんか。」

 「わかりました。」

 稲垣の言葉にこのように答えた青木と石川は、さっそく、江岩寺の中村住職のもとを訪れた。中村住職が収集してきた粘土は、大山村のどこにあったのか、教えてもらうためであった。突然訪れてきた青木と石川に対して、江岩寺の中村住職はこう言った。

 「そうですね、この粘土を見つけてきた場所は、口で説明してもあなた方にはわからないでしょうね。今日は、もう日も暮れかかっているし、明日は、私は、ちょっと出張に出かけていないものですから、この粘土を見つけた場所をお教えするのは、今度の日曜日にしませんか。今度の日曜日が晴れていたら、みんなで、この粘土を見つけてきた場所に行きましょう。」

 そして、明治3年(1870年)12月最初の日曜日、天気は朝から快晴であった。青木と石川と稲垣は、江岩寺に集合した。江岩寺の中村住職は、

 「それでは、これから、私が粘土を見つけた場所である大山廃寺跡の中に行きます。

 稲垣さんの昔の職場であった犬山焼の窯元では、粘土を作るために、石を採って粉々に砕き、砕いた土を水の中に入れて、かき混ぜて泥にして、泥を目の細かいざるで漉して小石や草やゴミを取り除き、その泥が乾いて良い感じの硬さになるまで4〜5日間放置して、練り、更にその粘土を2年以上寝かせて良い粘土を作り上げるという話を稲垣さんから聞きました。

 この話を稲垣さんから聞いて、ふと思い出したのが、大山廃寺跡の中に残っている鉄穴流しの跡のことです。鉄穴流しとは、山の傾斜を利用して、石から砂鉄を採るための工法です。山の斜面に人工的に川を作って、採集した石をバラバラに砕いたものを山の上から人工的に作った川に流し込みます。すると、比重の重い砂鉄だけが山の斜面の川の途中に沈み込みます。そして、川の途中に沈み込んだ砂鉄だけを採集して、製鉄所に持っていき、製鉄するのです。ということは、山の斜面の下の方には、砂鉄を取り除いた比重の軽い土だけが水に溶けて放置されるということになりますよね。これって、粘土じゃあありませんか。しかも、その鉄穴流しは、大山廃寺の跡にある訳ですので、相当昔から放置されている粘土ですよね。長く寝かせた粘土ほど良い粘土な訳ですので、その土を採集して、この間、私が稲垣さんに渡したのです。

 では、これから、大山廃寺跡の山の中にある鉄穴流しの跡に行きましょう。」

 江岩寺の中村住職は、後ろに青木と石川と稲垣を引き連れて、江岩寺を出て、赤い小さな橋を渡り、両側に生えた2本の大きな杉の木をくぐると、女坂という石畳の坂を5分ほど登った。そして、女坂の左側に生えたある1本の木の前で立ち止まって、こう言った。

 「この木の自分の背丈くらいの高さの幹の所に、赤いひもをぐるっとくくりつけておきましたから、この赤いひものくくりつけられた木が見えたら、そこから左の山の中に入ってください。」

 そして、中村住職は、赤いひものくくりつけられた木から左側の山の中に入って行った。そして、赤いひものくくりつけられた木の背後にある段を登り、赤いひものくくりつけられた木の一段上の木をさして、こう言った。

 「赤いひものくくりつけられた木の一段上の木にも自分の背丈くらいの高さの幹の所に黄色いひもをぐるっとくくりつけておきました。この黄色いひものくくりつけられた木の向こう側には、人が一人通ることができるほどの古道があります。その古道をたどっていくと、鉄穴流しの跡にたどり着きます。」

 こう言って、中村住職は、黄色いひものくくりつけられた木から更に山の中に入って行った。そして、ゆるやかなカーブを描く古道に沿って、歩いて行った。古道の左側には、昔、人間が切り開いたと思われる平地が広がり、古道の右側には、何かの建物の礎石と思われる四角い穴のあいた大きな石が転がっている。そして、古道を登りつめると、下の方に、石を積み上げて作ったダムのような石造物が見えた。

 「あれが鉄穴流しの跡です。あのダムのような石造物のあたりが、鉄穴流しの最終地点だと思われます。この間、稲垣さんに渡した粘土は、あのあたりで採集したものです。」

 そして、中村住職と青木と石川と稲垣は、ダムのような石造物の上に下りて、周辺にたまった土を採集した。そして、青木と石川と稲垣は、自分が運ぶことができるくらいの土を採集すると、中村住職が、青木と石川に向かって、こう言った。

 「青木さんと石川さんには、これから、お見せしたいものがあるんですけど、稲垣さんも一緒に来ますか?」

 すると、稲垣は、こう言った。

 「ああ、入鹿池の底にある白い木の根っこのある場所の話ですか。私は、そう言う話には、興味はない。この上にある古道に沿って歩いて行けば、女坂に戻れますから、私は、上の古道を戻って、工房に帰っていますよ。この土を使って、試作品を作ってみたいし。

 そうだ、私は、入鹿池を造るために入鹿村から前原に移された白雲寺に行ったことがありますよ。とても立派なお寺で、大きな楼門があって、大きな樹齢100年もありそうな立派な木があって、古い石製の手洗い鉢があって、何とも不思議な雰囲気のある寺です。青木さんと石川さんも一度、行ってみたらいい。何かヒントになるものが見つかるかもしれませんよ。」

 こう言うと、稲垣は、粘土を採集したダムのような石造物の横にある山道を登り、古道に消えていった。

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