九 玄法上人の怒り

 「それで、玄法上人の様子はどうだった?ものすごく怒っていたかね?」

 大山寺から比叡山に戻ってきた雲玄たちに会った天台座主の行玄が、まず雲玄たちにした質問は、それだった。雲玄は、天台座主の行玄にこう答えた。

 「怒っているというよりは、玄法上人は、自分の意見を絶対に曲げようとはしませんでした。行玄大僧正の意見は、現実的ではないとも言っていました。そして、来年4月に比叡山で行われる「御衣加持御修法」の帰りに都へ行き、大山川の改修を朝廷に直訴すると言っていました。」

 大山寺で、雲玄たちから、「京都で、諸国に洪水が起きないように祈る、近衛天皇勅願の儀が行われる」ことを聞いた時、玄法上人が怒りをあらわにして、雲玄たちを怒鳴り散らしていたならば、この後に起こる事態は全く変わっていたであろう。しかし、玄法上人は雲玄たちを怒らなかった。そして、玄法上人は、天台座主行玄とは、全く違う路線を敷いていたのだった。

 「それは、えらいことになった。怒っているということだけならば、怒りが静まるまで、大山寺に必要物資を送り続ければよい。しかし、私の意見に反対をして、しかも、朝廷に直訴するということになれば、それは、天台宗が2つに割れているということだ。今まで、私は、朝廷を天台宗の味方につけるために、どれほどの苦労をしたと思っているのだ?」

 天台座主の行玄はこう言うと、雲玄に、明日の朝、日が昇ったら、もう一度行玄と面会するように言った。

 翌朝、朝のお勤めを終えた雲玄は、天台座主行玄の部屋に行った。そこで、行玄は、修行僧の服に着替えながら、雲玄に頼みごとをした。

 「これから、私は、隠密にある人に会いに出かける。しかし、私がその人に会うことは、他の者には内緒にしたい。

 そこで、経を読む声が私にとてもよく似ている雲玄に、私が戻ってくるまでの間、私の代わりに、この部屋で、祈りの経を唱えていてほしい。私がこの経を唱えている間は、誰もこの部屋に入れてはならないと、周りの者には言い含めてある。

 もし、間違って、誰かが会いに来ても、絶対に部屋の中には入れるな。それでは、私は、あの小さな裏口から出ていくから、あとは、よろしく頼む。」

 天台座主行玄は、裏口から裏庭に出ると、深網笠を深くかぶって、山の中を急いで歩いた。そして、山の中にある小さな庵の中に入っていった。

 庵の中には、刀の手入れをしている「山庵」という修行僧がいた。山庵は、行玄と同じ時期に比叡山に出家し、行玄にとっては、よく相談にのってもらっている存在だった。頭の良かった行玄は、天台座主までのぼりつめたが、山庵は、どちらかというと、体力勝負の武闘派で、比叡山の中での出世は全く望みがなかった。庵の中に入った行玄は、深網笠を取って、山庵と向かい合って座った。

 「久しぶりだなあ。お互い年をとったな。しかし、山庵は、いつも体を鍛えているから、私とは違って、足腰もまだまだ丈夫だな。

 ところで、今日、私がここに来たのは、全くの隠密なのだ。私がここに来たことは、誰にも秘密だからな。今日は、山庵に私の悩みを聞いてほしくてここに来たのだ。これから言う私の愚痴を、どうか最後まで聞いてもらえないだろうか?」

 そう言って、行玄は、山庵に真剣なまなざしを向けた。山庵もそのまなざしを受けて、刀の手入れをやめ、行玄と向き合った。そして、行玄は山庵にこう話し始めた。

 「大山寺という寺を知っているか?「西の比叡山、東の大山寺」とも言われて、知る人ぞ知るでかい寺だが。そこにいる玄法上人というのが、武士の出身なのだ。
 玄法上人は、寺の中に造られた製鉄所を更に拡大して武器を生産している。そして、それらの武器を使って、大山寺の地域の人々の治安を守っているというのが、玄法上人の自慢なのだ。」

 山庵は、初めて聞く「大山寺」という名前の寺に興味津々だった。行玄は続けた。

 「去年の9月にこちらの方でも大雨が降っただろう?覚えているか?私は、あの時、御所で、雨がやむよう、五壇法を修していた。五壇法が効いて、御所周辺の雨はやみ、朝廷も天台宗に一目置くようになったのだが、その同じころ、大山寺の地域にある大山川という川が洪水になった。

 大山川は毎年のように洪水を繰り返しているから、古くから地元に住んでいる人々は、大山川が洪水になりそうだと判断した時は、大山寺に避難していた。もちろん、大山寺もそのことは承知していて、いつも避難の備えは万全にしていた。

 ところで、最近、東大寺や西大寺の勧進僧たちが、勧進活動の一環として、河川の改修事業に取り組んでいることは、山庵も知っているだろう?そのことを知った大山寺の地元の人々の一部から、大山寺も大山川の改修事業をやってほしいという意見があった。それで、玄法上人は、比叡山延暦寺に大山川の改修事業をしてくれないかと頼んできた。

 しかし、私は、大山川の改修事業には反対だ。もちろん、お金のことはあるが、河川の改修というのは、果たして、本当に、地元のためになるのだろうか?人間が生き残るために自然の姿を変えてしまってもいいのだろうか?それよりも、人間は、洪水の不安のない高台に住み、自然とうまく付き合っていくことの方が、正しいのではないだろうか?

 しかし、玄法上人は、比叡山延暦寺が大山川の改修事業をやってくれないのなら、来年の4月の「御衣加持御修法」の時、都の御所に出向き、諸国に洪水が起きないように祈る代わりに、大山川の改修事業をやってくれるように朝廷に直訴するつもりだそうだ。玄法上人の心には、私の声が届かないようだ。」

 この話を聞いた山庵は、大山川の改修事業をやってあげるよう、天台座主行玄に進言した。しかし、天台座主行玄は、河川の改修事業をやるかわりに、洪水が起きないように儀式で祈るという姿勢は、朝廷との間で合意済の決定事項であり、大山川だけ特別に河川の改修事業をやるというわけにはいかないと言った。話を聞いた山庵の目には、天台座主行玄がとても悩んでいる様子がよくわかった。

 「もし、玄法上人が本当に朝廷に大山川の改修事業を直訴すれば、朝廷には、天台宗が2つに割れていると足元を見られかねない。そして、美福門院様や鳥羽上皇や近衛天皇の私に対して抱いているイメージにも傷がつきかねない。玄法上人に私の心の声を届ける方法はないものだろうか?」

 山庵は、いつものように、悩む天台座主行玄に湯豆腐をふるまった。

 「山庵の作る豆腐は本当にうまいな。これを食べると、私もほっとするよ。じゃあ、私の好きな湯豆腐も食べたことだし、ここらへんで、帰るとするか。ところで、今回、私がここを訪れたことは、本当に、他の者たちには、秘密だからな。次にここへ来た時には、また、湯豆腐を食べさせてくれ。それでは。」

 行玄はそういうと、再び、深網笠をかぶり、庵を後にした。

 天台座主行玄が庵を去ったあと、一人になった山庵は、考え込んでしまった。これは、ひょっとすると、天台宗の危機なのではないだろうか、と山庵は思うのだった。山庵は、天台座主行玄か大山寺の玄法上人か、どちらかが折れなければ、問題の解決は望めないような気がしてきた。そして、天台座主行玄と同じ時期に比叡山に出家した自分が、今、天台宗のためにできることは何だろうと考えるのだった。

 山庵自身は、どちらかというと、玄法上人の意見に賛成だった。そして、武士の出身であり、大山寺の中に製鉄所を造って、武器を生産し、地元の治安を守っているという玄法上人の姿にあこがれすら感じていた。玄法上人は、山庵が生きているうちに一度は会ってみたい僧侶の一人となっていた。

 しかし、天台宗と朝廷との関係を考えると、玄法上人には、来年の「御衣加持御修法」の帰りに御所へ行き、大山川の改修事業をしてもらうように朝廷に直訴するという行為は、やめてもらわなければならない。

 従って、山庵はこう考えた。今、山庵が、天台宗のために、しなければならないことは、来年の4月までに、玄法上人に会い、朝廷への直訴を絶対にやめてもらうことであると。確かに、人間的には、玄法上人に魅力を感じても、朝廷に天台宗の足元を見られることはあってはならないし、天台宗が2つに割れることもあってはならない。そして、今の天台座主は、玄法上人ではなく、行玄なのである。

 ところで、山庵のもうひとつの裏の顔は、比叡山の僧兵を統括している僧侶であることだった。

 10年ほど前、三井寺を襲って、火をつけ、寺主を殺害したのも山庵の率いる僧兵たちであった。あの時、山庵は、比叡山のトップの僧侶に命令されたから三井寺を襲ったわけではない。山庵は、そうしなければ、天台宗がつぶれてしまうと思ったから、自分の意思で、三井寺を襲って、寺主を殺害したのだ。今、山庵の頭の中には、10年前のことが走馬灯のように思い出されるのだった。

 一方、話は、大山寺の玄法上人に戻る。諸国に洪水が起こらないように祈る近衛天皇勅願の儀のために、雲玄たちが比叡山に帰って行った後の大山寺で、玄法上人はひとつの覚悟をしていた。玄法上人は、今年の4月の「御衣加持御修法」の行事のときに、名前も知らない僧侶からささやかれた言葉を思い出していた。

 「あなたの気持ちはとてもよくわかる。なぜなら、私も以前、今回のあなたと同じ目にあったことがあるからだよ。でも、気をつけた方がいい。今、比叡山の僧侶たちの中には、自分たちの批判をした者には、武力で言い返すことをする者たちが暗躍しているという話だ。天台座主でさえ、その者たちの批判をすると、命を狙われるかもしれないというのが、今の比叡山の裏の姿だ。

 彼らは、なぜか、いつも、ターゲットを探している。私も以前、恐ろしい目にあった。寺が放火され、危うく、死にかけるところだったよ。御所は、彼らの横暴から身を守るために、武士を雇ったのだ。」

 玄法上人は、比叡山に帰る雲玄たちに向かって、「大山川の改修事業をしてもらうように朝廷に直訴する。」と言ったことを少し後悔した。しかし、一度、口から出た言葉は、容易に消し去ることのできないものである。もしかしたら、この大山寺も比叡山の僧兵たちによって放火されることがあるかもしれない。そう思ったら、武士出身の玄法上人は、さっそく、比叡山の僧兵たちが攻めてきたときの対策を考えるのだった。

 玄法上人が考えた対策は、次のようなものであった。

 比叡山の僧兵たちは、総門を突破した後、男坂と女坂と不動坂の境の所で、不動坂から大山不動を通って、本堂に侵入してくる者たちと、女坂から左手に鉱山を見て、右手に僧坊を見ながら太鼓堂のあたりを通って油しぼりから本堂に侵入してくる者たちと、男坂から製鉄所を突破して、油しぼりから本堂に侵入してくる者たちの三方に分かれるだろう。従って、比叡山の僧兵対策として、大山寺の僧兵たちを配置する地点は、総門の地点、3つの坂が分かれる地点、太鼓堂と製鉄所の地点、大山不動の地点、そして、本堂の入口の計5地点となる。大山寺の僧兵の数から考えて、この5地点を守るだけで僧兵を使いつくしてしまうということが、現在の大山寺の現状だった。

 更に、このような対策を立てる上で、玄法上人には、もうひとつ気がかりなルートがあった。そのルートとは、山を登り、今は廃墟となっている昔の塔の跡から更に山を登って、山の頂上に到達し、そこから、本堂の裏手に下ってくるというものだった。

 大山寺の現在の本堂は、昔の塔の跡から一山を隔てた所にあり、そのことによって、大山寺は、わかりにくい場所にある山寺だった。だから、何も知らない比叡山の僧兵たちが、廃墟となった昔の塔の跡にたどり着いた後、更に、廃墟となっている塔の裏山を登って、そこから、本堂を攻めるというのは、考えにくい話だと玄法上人は思いたかった。そう思いたかったが、やはり、昔の塔の跡から登った山の頂上には、少ない大山寺の僧兵たちの中から、配置を決めなくてはいけないというのが、玄法上人の現在のジレンマだった。

 大山寺は、大山三千坊と言われるほどの巨寺ではあったが、玄法上人の時代には、大山寺というのは、有力者がこぞって自分の子供たちを送って修業させることがステイタスのようになっていた。いわば、当時の大山寺は、現在の有名私立学校だったと考えるとわかりやすい。玄法上人は、いろいろ考えた末、廃墟となっている塔の裏山の頂上地点には、大山寺で修業している若い青年僧の星海を見張りにつけることにした。そして、玄法上人は星海に、こう言い含めた。

 「比叡山の僧兵たちをはじめとして、この大山寺を狙う者たちは多いのが今の世の中だ。星海には、これから、稚児僧の牛田と佐々木を一組として、私と、三交代で、見張りに出てもらう。

 つまり、3日に一度、日が沈んでから日が昇るまでの間、今は廃墟となっている塔の裏山の頂上に立って、下から登ってくる不審なものがいないか、見張っていてほしい。そして、もし、下から登ってくる不審なものを見つけたら、すぐに、頂上から本堂の方へ下り、私に知らせてほしい。そして、その不審なものが本堂にたどり着く前に、皆で、他の場所に避難するのだ。

 まず、今日の夜は、私が見張りに立つ。明日の夜は、稚児僧の牛田と佐々木が見張りに立つ。その次の日の夜は、星海、おまえが、見張りに立ってくれ。

 これは、この寺で作った薙刀だ。見張りの日は、これを持って見張りに立ってくれ。それと、今日から、毎朝、薙刀を使うための訓練を行うから、必ず、その訓練には出席しなさい。」

 このようにして、大山寺で玄法上人が武器を作り、僧兵に武器を使う訓練を与えて、寺の守りを固めていた頃、比叡山の僧兵を統括している山庵は、天台座主にも極秘にして、ある計画を練っていた。その計画は、天台座主が関わったと世間の人に思われてはならない。この計画に天台座主が関与したとなれば、朝廷は天台宗をつぶそうとするかもわからない。しかし、天台宗が国家の根幹に関わっていくためには、この計画を実行するよりほかに道はないと山庵は思っていた。

 山庵は、昨年の春頃に大山寺へ行き、そこで生活をしていたという雲玄たちから、大山寺に関する様々な情報を得ていた。山の中に多くの僧坊が存在し、本堂は、それらの僧坊から更に一山越えた奥にあるという大山寺の地図も雲玄たちから手に入れていた。その大山寺の地図は、山庵が、「私は大山寺と玄法上人に強い憧れを抱いている。いつか、大山寺に行って、玄法上人に会ってみたいのだ。だから、大山寺の地図を私に譲ってもらえないだろうか。」と言って、大山寺の地図を出し渋る雲玄たちから、苦労してもらってきたものだった。

 山庵の計画は、こうだ。

 大山寺の玄法上人が来年の4月に「御衣加持御修法」の行事に出席することは、もうわかっている。従って、山庵が大山寺の玄法上人に会って、「御衣加持御修法」の行事の後に、大山川の改修事業を実施するように朝廷に直訴するという行為をやめてもらうように説得するのは、来年の3月までには行わなくてはならない。そして、3月末に「御衣加持御修法」の行事に出席するために比叡山に向かって大山寺を出発する玄法上人と行き違いにならないためには、3月の中頃までに大山寺の玄法上人に会うのが望ましいと山庵は考えていた。また、大山寺の玄法上人への説得行為を、天台座主行玄に知られないようにするためには、来年の4月に行われる「御衣加持御修法」の行事のための準備で、比叡山のトップの僧侶たちが忙しくなる、来年の3月に行動を起こす以外は考えられなかった。

 山庵は、今回の大山寺の玄法上人への説得計画を実行するために、40人ほどの比叡山の僧兵をひそかに集めた。3月に入ったら、山庵を先頭に40人の比叡山の僧兵たちは、天台座主らに気付かれないように、ひそかに比叡山を出て、尾張にある大山寺に向けて出発する手はずは整えた。山庵たち比叡山の僧兵は、1週間かけて尾張の大山寺に到着した後、リーダーの山庵は、大山寺の本堂にまっすぐ進み、玄法上人を説得する。そして、山庵以外の比叡山の僧兵たちは、大山寺の僧兵たちに気付かれないように、大山寺の各僧坊に身を隠す。

 もし、玄法上人が山庵の説得に応じれば、山庵は、40人の比叡山の僧兵たちを連れて、何もせずに、大山寺を離れるつもりだ。しかし、玄法上人が山庵の説得に応じなかったその時は、まず、山庵が本堂に火を放ち、本堂から煙があがったのを確認した残りの比叡山の僧兵たちは、それぞれ隠れていた僧坊に火を放ちながら、大山寺を離れて比叡山に帰っていくつもりであった。山庵がこのような大山寺の玄法上人説得計画を練り、集めた比叡山僧兵との武器を使う訓練を行っている間に、計画を実行する3月はすぐに訪れた。

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