九 国の史跡指定

 そして、1年後の1929年(昭和4年)夏の日の夕方5時過ぎ、薄い黄色のネクタイを締め、白いワイシャツの袖をひじまでめくり、薄いグレーのズボンをはいて、薄いグレーのスーツの上着を左手に持ち、右手で、茶色いかばんを大事そうに握り締めた小栗鉄次郎が、文部省の建物の中に入っていった。愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事の小栗鉄次郎は、愛知県知事から渡された、東春日井郡篠岡村(現在の愛知県小牧市)にある大山寺跡と、西加茂郡猿投村(現在の愛知県豊田市)にある舞木廃寺跡と、碧海郡矢作町(現在の愛知県岡崎市)にある北野廃寺跡の3つの遺跡の国の史跡指定願いの申請書を持って、再び、東京にある文部省の史跡名勝天然記念物調査会考査員柴田常恵のもとを訪れたのであった。3件の国の史跡指定の申請書には、遺跡のある地元の村長だけでなく、助役や教育部長、土木部長、経理部長、道路課長など、遺跡の存在している市町村を運営している何人もの肩書きの人間の印鑑が必要であったが、3件の申請書とも、印鑑は、過不足なく押されていた。白いシャツに薄いグレーのネクタイを締め、水色のズボンをはいた柴田は、小栗から、国の史跡指定願いの3枚の申請書を受け取ると、ほっとしたように、椅子に座りこんだ。

 「小栗さん、ご苦労様でした。よく、私が話した通りにやっていただけましたね。小栗さんもつらかったでしょう。この仕事は、愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事としての小栗さんの成果です。愛知県知事も、あれほど、我々には冷たい態度に出ていたのに、よく3枚もの申請書を提出してくれましたね。我々は、我々に理解を示してくれた知事にも感謝しなければなりませんね。

 ところで、小栗さんが書いた30枚の「大山寺跡」の報告書は、きっちり、破棄していただけましたか?」

 柴田がたずねると、小栗はこう答えた。

 「私が書いた30枚の「大山寺跡」の報告書は破棄し、愛知県職員が私の報告書を切り貼りして作った9ページの「大山寺跡」の報告書を、昭和3年3月付けの「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」の中に滑り込ませましたよ。「昭和3年2月に地表下から十七個の塔の礎石を発見することを得た。」という記述のある「大山寺跡」の報告書が、昭和3年3月付けの「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」の中に入っている。後の時代になって、この報告書を読むことになる、私たちの子孫たちは、どう思うでしょう?当然、変だと思って、いろいろ調べるでしょう。この行為こそ、大山寺跡の国の指定史跡範囲を山全体とするために、愛知県史跡名勝天然記念物調査会の活動が始まったことを示す記念すべき第一歩となるでしょう。」

 小栗が囁くように、柴田にこう話すと、柴田は、

 「今の話は、私は、墓場まで持っていきますから。」

 と、一言つぶやいて、3枚の申請書を封筒に入れて、封をして、机の中にしまい、机に鍵をかけた。そして、小栗の方を見て、こう言った。

 「これで、大山寺跡と舞木廃寺跡と北野廃寺跡は、3件とも、国の史跡に指定されるでしょう。この書類を文部大臣にまわすのは、明日にするとして、小栗さんは、今日は、愛知県の宿舎に一泊してから、明日、名古屋に帰るんですよね。」

 「そうです。」と小栗が答えると、柴田は、小栗にこう言った。

 「小栗さんは、喜田貞吉博士をご存知ですか?愛知県史跡名勝天然記念物調査会調査主事なら、何度か会ったことがあるでしょう?今日は、これから、喜田博士と会う約束をしているのだけれど、小栗さんも私と一緒に来ませんか?」

 そして、小栗は、柴田の後について、文部省の建物を出て、地下鉄で移動し、東京神田にある大衆酒場に入って行った。その大衆酒場は、「モダン」という名前の看板を屋根に掲げていた。あたりが暗くなって、紐から垂れ下がったいくつもの白熱灯が、看板と看板の下に掲げた店のメニューを照らし出していた。店の中は、人がいっぱいで、騒がしい。その店の中に、緑色の着物を着て、薄いグレーに青いストライプの入った袴をはき、白いたびと黒い草履をはいて、丸いめがねをかけ、ひげをはやした60歳くらいの男が、一人で、いすの座席に座っていた。喜田貞吉博士である。柴田たちより先に店に入っていた喜田は、テーブルを一つ確保して、座っていた。喜田のテーブルには、焼酎と煮物が一皿置かれていた。柴田は、喜田をみつけると、喜田の座っているテーブルに行き、一緒に連れてきた小栗を紹介した。

 「ああ、小栗さん、久しぶりですね。今日は、何かいいことでもありましたか?」

 喜田は、柴田と小栗を見て、人なつこい笑顔を見せた。

 喜田貞吉は、黒板勝美と同じ東京帝国大学の出身で、1909年(明治42年)に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により、東京帝国大学から文学博士の称号を得た、古代史・考古学専門の学者である。徳島県で農民の子として生まれた喜田は、1929年(昭和4年)の夏に柴田と小栗に会った時には、58歳となっていて、東北帝国大学国史学研究室で働いていた。

 小栗と喜田の交流は、12年前の1917年(大正6年)、小栗が36歳で、喜田が46歳の頃、小栗が自身の住む猿投村を調査したとき以来続いていた。小栗はこの時、猿投村の伝説を聞き書きし、「猿投村に関する口碑伝説集」という本をまとめていたが、猿投神社の古文書調査の際、小栗は、喜田から、様々なことを教えてもらっていたのであった。また、柴田にとって、喜田は、黒板勝美と同じく、文部省の史跡名勝天然記念物調査会考査員の仕事を進めていくうえで、大事な相談相手であった。

 「ああ、小栗さん、久しぶりですね。今日は、何かいいことでもありましたか?」

 東京神田の大衆酒場の中は、労働者など様々な人でごったがえしていて、騒がしく、お互い話している声も聞きづらいほどだった。小栗と柴田は、冷酒2つとつまみの冷奴を2皿、もろきゅうを3つ、アサリの酒蒸し3つ、茶碗蒸しを3つ、塩焼き鳥を12本注文して、喜田のテーブルに座った。そして、酒とつまみがテーブルに届くと、さっそく、小栗は、きわめて小さい声で、愛知県にある大山寺跡を国の指定史跡にする経緯と小栗の思いを、喜田にささやくように説明した。そして、昭和3年3月付けの「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」の中に小栗が滑り込ませた、9ページの「大山寺跡」の報告書の話をすると、喜田は、柴田と同じく、「今の話は、私は、墓場まで持っていきますから。」と、小栗にささやくのであった。そして、喜田は、小栗にこう提案した。

 「そう言えば、小栗さんもご存じの黒板勝美博士は、大山寺の言い伝えに見える出来事が起こったとされる平安時代末期に書かれた、様々な書物の編纂を行っています。「国史大系」や「群書類従」という名前の本ですが、私の方から、黒板博士編纂の「国史大系」や「群書類従」の本を愛知県に寄贈しておきましょう。大山寺の言い伝えの件で黒板博士に相談に行った時、大山寺の言い伝えは真実であると黒板博士がおっしゃったと、さっき、柴田さんが言っていましたね。私たちが死んで、やがて、私たちの子孫の中から、大山寺の言い伝えに興味を持った誰かが、黒板博士編纂の「国史大系」や「群書類従」の本を読んだ時、大山寺の言い伝えは、真実であると確信するでしょう。」

 この話を聞いて、小栗は、「ぜひ、お願いいたします。」と喜田に頭を下げた。

 まわりの騒がしさの中で、柴田と小栗と喜田のひそひそ話をする姿は、傍から見れば、少し、怪しげでもあった。そして、東京神田の大衆酒場の片隅で、濃いグレーのスーツに白いシャツを着て、水色のネクタイを締め、山高帽をかぶり、丸いめがねをかけた40代くらいの男と、黒いスーツに白いシャツを着て、青いネクタイを締めた30代くらいのもう一人の男が、喜田と柴田と小栗たちの様子を観察していた。その男たちは、喜田がこの酒場のテーブルに座った時からずっと、喜田を観察していた。

 「おい、喜田貞吉博士と一緒にいる他の二人の男は誰なんだ?」

 喜田貞吉博士は、古代史・考古学専門の学者であったが、社会的に様々な論争を巻き起こしてきた学者でもあった。例えば、法隆寺再建・非再建論争では、再建派として、論争を繰り広げてきた。また、喜田は、被差別部落の研究において、先駆者としての役割を果たした学者でもあった。そして、喜田が国定教科書の編纂をしていた当時、南北朝時代のところで、南朝と北朝を並べて記述したことにより、南北朝時代の正統な朝廷は南朝であるとする立場の者たちから非難されて、休職に追い込まれたことがあった。この論争を「南北朝正閏問題」という。 喜田貞吉博士が巻き起こした社会的な論争の中で、この小説の中で、重要な役割を果たしていく論争は、「被差別部落」の研究と、「南北朝正閏問題」である。

 まず、「南北朝正閏問題」について説明する。明治維新によって成立した明治政府は、大日本帝国憲法の第一条で、「大日本帝国は、万世一系の天皇が之を統治す。」と規定した。つまり、日本においては、天皇は、ただ一人であり、そのたったひとりの天皇が、議会の協賛のもとに、立法権を行い、緊急勅令を発布し、法律の公布・執行、議会の召集・解散、統帥・外交・官吏の任免、栄典授与などにおいて、強大な権力を持っていた。そして、明治政府は、ただ一人の天皇の大権のもとでは、議会や国民の権利は制限される、ということが基本として成立している政府であった。

 しかし、明治時代以前の日本の歴史をひもとけば、天皇家が強大な権力を握っていた時代は、奈良・平安時代くらいのもので、縄文・弥生時代は、日本は内戦状態だったし、古墳時代は、天皇の持つ権力は、常に有力豪族によって脅かされていたし、鎌倉時代から江戸時代までは、天皇家の持つ権力を武士が握っていたし、南北朝時代のように、天皇家が2つに分かれて戦っていた時代もあった。そして、これらの歴史の真実は、歴史学が発展すればするほど、日進月歩で明らかになっていくのであった。

 たったひとりの天皇によって権利が制限されている国民の不満が爆発することがあるとしたら、このような日本の歴史を通じてであることは、政府内の人間にとっても、国民にとっても、明白なことであった。1910年(明治43年)、幸徳秋水らが明治天皇の暗殺を企てたとされる大逆事件の秘密裁判において、被告人である幸徳秋水が、南北朝時代には、天皇が二人いて争っていたことを指摘したことが外部に漏れた。まず、秘密であることが外部に漏れたという事実が問題であると筆者は思うのだが、秘密であることが外部に漏れざるを得なかったのは、政府内部の人間の中にも、明治政府の方針に対して不満を持っている者が少なからずいた、ということである。つまり、明治政府内部が一枚岩ではなかったということなのだが、当時の政府は、明治政府内部の中にも不満分子がいるという現実を直視せず、日本の歴史の中の南北朝時代に焦点を当てて、南朝と北朝のどちらが正統な朝廷なのか、帝国議会に決めさせるということで、事態の収束を図ったのだった。これが、「南北朝正閏問題」と言われるものである。

 結局、帝国議会は、「南北朝時代は、南朝を正統な朝廷とする。」と決議した。そして、当時の小学校の歴史の教科書の南北朝時代の記述において、南朝と北朝が並べて記述してあることを問題として、教科書の編纂者であった喜田貞吉博士を休職に追い込んだのであった。「南北朝時代」は、南朝が吉野にあったことから、「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。

 つまり、この時点において、日本国内における内戦を避けるために、明治政府側の人間に、日本の歴史を自分たちの都合のいい歴史に変えてしまおうとする動きがあったということになる。1911年(明治44年)に「南北朝正閏問題」が起きて以後、このような動きを示す勢力(軍部や右翼)が、政府内部において台頭してきたことは間違いない。そして、この動きが、昭和の時代にまで脈々と受け継がれ、小栗鉄次郎たちが活躍する昭和初期の時代に、軍国主義・ファシズムを進めて、やがて、日本は、戦争の渦の中に巻き込まれていく。喜田貞吉博士は、軍部や右翼から、目を付けられていたのであった。

 また、喜田貞吉博士は、被差別部落研究の先駆者としても知られている人物である。

 被差別部落というものが発生した起源はどこで、いつ頃であるのか、という問題は、現在でも学者の間で議論されているところである。恐らく、古代以前から存在していたと見られるが、被差別部落が人種を起源としているのか、職業を起源としているのかは、学者の間でも意見が統一されていない。しかし、被差別部落に生まれた人々は、生まれながらにして、交際・結婚・就職において差別を受け、部落全体においては、インフラの整備において差別を受けた。被差別部落においては、貧しさから、物乞いをする人が後を絶たなかった。

 明治時代に入って、明治政府は、江戸時代まで続いていた身分制度を撤廃し、解放令を出して、部落民の職業・身分を一般の平民と同様にするとした。しかし、多くの村々では、部落民の解放令に対する反対が根強く、平民が部落民と同等に扱われることに対して、反対運動が起きるほどであった。結局、部落解放を唱える者たちは、一部のインテリのみであった。それほど、部落民は、明治政府の解放令を受けても、人々の差別の対象となっていた。そして、1922年(大正11年)、部落民の人権侵害の防止に積極的でなかった政府に反発した者たちは、全国水平社を結成した。

 1917年(大正6年)にロシア革命が起こり、日本においても、プロレタリア運動が盛んになってきた頃に結成された全国水平社の部落解放運動は、社会主義運動や自由民権運動との関わりを持つようになった。このうち、社会主義運動と関わりを持った全国水平社の部落解放運動は、政府から弾圧を受けるようになる。1925年(大正14年)に制定された治安維持法は、1928年(昭和3年)に改正され、社会主義運動は厳しく制限されることとなった。政府は、治安維持法改正に基づいて、特別高等警察という組織を作って、全府県に設置し、検閲などを行って、社会主義運動の取り締まりを強化した。

 1929年(昭和4年)夏、小栗鉄次郎と柴田常恵と喜田貞吉が大衆酒場で会って、酒を酌み交わし、お互いの情報を交換し合っていた頃、全国水平社の部落解放運動のうち、社会主義運動と関わりを持った左派は、特別高等警察の取り締まり対象となっていた。そして、全国水平社の部落解放運動のうち、誰のどの運動を左派と見るかというのは、特別高等警察の裁量に任されていた。

 「被差別部落」の研究についての著書も多かった喜田貞吉は、自然、特別高等警察の取り締まりの対象となっていた。喜田貞吉には、常に、特別高等警察の監視がついた。そして、特別高等警察は、喜田貞吉とひそひそ話をしながら酒を酌み交わしていた小栗鉄次郎や柴田常恵を見て、二人の調査を始めた。優秀な特別高等警察官が、小栗鉄次郎と柴田常恵の名前や仕事や住所をつきとめることに時間はかからなかった。

 そして、大衆酒場で喜田貞吉とひそひそ話をしながら酒を酌み交わしていた小栗鉄次郎や柴田常恵を見ていたのは、特別高等警察官だけではなかった。それは、自分たちに都合の悪い歴史を都合のいい歴史に変えてしまおうとしていた右翼や軍部の人間たちであった。小栗鉄次郎と柴田常恵と喜田貞吉の隣のテーブルで飲んで騒いでいた、グレーの作業着を着た二人の労働者たちは、右翼や軍部の人間たちだった。

 そして、1929年(昭和4年)夏以降、48歳になる小栗鉄次郎は、まるで、何かにとりつかれたかのように、仕事をこなしていった。小栗鉄次郎の書いた「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」は、1927年(昭和2年)付け、1928年(昭和3年)付けが、それぞれ1件ずつだったことに対して、1929年(昭和4年)以降は、年間8件以上に増加していった。そして、小栗鉄次郎は、そのペースを、58歳になる10年後、1939年(昭和14年)まで持続させるのである。この10年間で、小栗が、1年間に8件以上の報告書を書きながら、調査した古墳などの考古資料の数は、はかりしれない。小栗鉄次郎がこれほどまでに仕事にのめりこんでいったその情熱の原動力は、一体、何だったのだろう。大山廃寺跡の史跡指定が自分の思い通りにならなかったことに対する悔しさなのか、それとも、未来に対する希望なのか。

 そして、小栗鉄次郎の書いた「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」は、1940年(昭和15年)から、年間4〜5件ほどに減って行き、小栗が61歳になる1942年(昭和17年)、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」20巻の中で、小栗は、4件の報告を書いた。そして、小栗の書いた4件の報告書と同時に、「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告」そのものが終了する。1941年(昭和16年)12月に太平洋戦争が勃発し、1943年(昭和18年)12月には、愛知県史跡名勝天然記念物調査会の指定事務は停止されてしまう。愛知県史跡名勝天然記念物調査会の指定事務が停止された時、小栗は、62歳であった。

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