篠岡97号窯

篠岡97号窯発掘調査の写真

篠岡97号窯発掘調査(北東から)光ヶ丘三丁目

 まず、篠岡97号窯の発掘調査に至る経過を説明しよう。その契機は、昭和58年(1983年)11月9日、当時の小牧市立桃ヶ丘小学校教頭先生であった入谷氏からの古窯跡を新発見したという連絡によるものであった。入谷氏は、たまたま工事現場付近を通ったときに、灰と陶器片の散布を発見し、すぐに古窯跡と判断して、小牧市教育委員会社会教育課に電話連絡したのである。

 連絡を受けた小牧市教育委員会社会教育課は、担当職員を現地に派遣し、入谷氏の案内で、現地調査をしたところ、入谷氏の発見した灰と陶器片の散布は、造成工事によって古窯跡を切断した結果のものであることが判明した。小牧市教育委員会では、工事を担当する桃花台建設事務所に状況を報告すると共に、愛知県教育委員会文化財課より、保存についての指導を得た。

 古窯跡は、工事によって新発見されたものではあるが、当該工事は、ほぼ終了する段階で計画変更が不可能なことに加えて、97号窯は、工事によって大半が破壊され、このまま保存することが困難である。従って、小牧市教育委員会では、工事の関係上、緊急の発掘調査を実施することになった。昭和59年(1984年)1月10日から19日までの期間で、愛知県建築部桃花台事務所から調査委託を受け、小牧市教育委員会が発掘調査主体となる形で、篠岡97号窯の発掘調査は実施された。

篠岡97号窯発掘作業風景の写真

篠岡97号窯発掘作業風景(南東から)光ヶ丘三丁目

 調査を開始すると、篠岡97号窯付近は、遺跡発見の原因となった今回の工事以前にも、何度かの攪乱を受けていることがわかった。篠岡97号窯の窯体は、道路によって大半が切断され、斜面を山側から掘削した崖面にわずかに取り付くような形で残存するのみで、それは、窯体下部の燃焼室左半分の一部と焚口のごく一部だけであった。前庭部は、攪乱が著しく、全く原形をとどめていなかった。また、窯体から下の方向の斜面には、窯体から廃棄された灰・焼台・窯壁片・土器などによって形成された灰層が認められた。しかし、出土遺物と灰原の層序との間には、明瞭な関連性は認められず、時期的な差異を分層によって認めることはできなかった。

 篠岡97号窯の発掘調査は、降雪や凍結に悩まされながら、昭和59年(1984年)1月19日に全て終了した。

篠岡97号窯出土灰釉陶器の写真

篠岡97号窯出土灰釉陶器。写真の中で、一番上にあるのが四足壺、その下にあるのが陰刻花文香炉蓋、その左にあるのが耳皿、右にあるのが灰釉小瓶。

 ところで、篠岡97号窯の出土遺物には、灰釉陶器、須恵器、焼台、トチなどの窯道具がある。篠岡97号窯の出土遺物の特徴としては、灰釉陶器の出土が主体を占めていて、須恵器の出土量は、灰釉陶器の5%以下と、ごく少量であることがあげられる。この事実は、篠岡112号窯と比較すると、おもしろい。

 その他の特徴としては、尾北窯など尾張の特産品と言われている四足壺や希少な製品である香炉蓋が出土したことがあげられる。四足壺は、用途は不明であるが、愛知県の猿投窯と尾北窯で焼成された尾張の特産品で、香炉蓋と同様に、主として寺院に供給されていた。猿投産の四足壺が京都を供給先としていたのに対して、篠岡産の四足壺は、京都地方での出土がないため、供給先は不明である。篠岡97号窯での四足壺の出土は、尾北窯では3例目であるが、4個体も出土したのは、おそらく尾北窯では初めてであったと思われる。

 篠岡97号窯の場合、窯体がほとんど残存しなかったことから、出土遺物から、篠岡97号窯を考察するしかない。篠岡97号窯の特徴は、灰釉陶器の椀・皿を主体としつつ、四足壺・香炉蓋・稜椀・双耳椀などの特殊品を焼成していたことにある。そして、篠岡97号窯は、900年から950年にかけて、灰釉の椀・皿を主体に特殊品も焼成する窯として操業を開始し、950年から1000年の間に、椀・皿の専業窯としての傾向を強めつつ、操業を終えていく。

篠岡97号窯現在地の写真

篠岡97号窯現在地。2003年10月このホームページ管理人撮影。

篠岡97号窯現在地である小牧市立光ヶ丘中学校グラウンドフェンス裏の写真

篠岡97号窯現在地。小牧市立光ヶ丘中学校グラウンドフェンス裏。2003年10月このホームページ管理人撮影。

<参考文献>

「桃花台ニュータウン遺跡調査報告Y 小牧市篠岡古窯跡群」愛知県建築部・小牧市教育委員会 昭和59年(1984年)9月発行