10.日中戦争と太平洋戦争の時代〜戦争と大久佐八幡宮〜

拝殿前の狛犬

2013年1月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮にて撮影したものである。台座に昭和3年(1928年)1月の日付が彫られた拝殿前の狛犬から、拝殿に掲げられた、慶応3年(1867年)8月に神祇官より請け賜わった「正一位大久佐八幡宮」と書かれた立派な神号額を望む。

 「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)において、著者の波多野氏は、「第七章 大久佐八幡宮の神事」のページで、次のように書いている。

 「明治の頃から続いていた祭事は、太平洋戦争が苛烈さを増すにつれて、若者たちは軍隊や軍需工場、勤労動員に駆り出され、その担い手であった青年会はいつとなく消え去り衰微した。しかし神事は今もなお、形式や規模の差こそあれ連綿と続いている。戦前は、元日を除き、ほとんどの神事は旧暦で行われていたが、現在はその日に近い太陽暦の日曜日に行われている。」

 また、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)の中には、次のような記述もある。

 「昭和初期は戦争の時代である。幾多の青年や妻子を残したままの壮年がこの神社で武運長久の祈願を終えて戦地へ赴いた。また、我が子、我が夫の無事を祈り、小走りにお百度詣でをする婦人の姿も多くみられた。しかし六十三名の人たちは、二度と大草の地を踏むことはできなかった。」

 そして、このホームページ管理人は、東部市民センターの図書室に行き、「小牧市戦没者芳名録 国の礎」というA3ほどの大きさの本をめくった。その本には、小牧市在住の方で、戦争で亡くなられた方の顔写真・名前・亡くなられたときの年齢・住所・遺族の方の名前と関係・亡くなられた方の履歴・亡くなられた方の戦死理由・亡くなられた方の戦死場所・亡くなられた方の菩提寺が書かれてある。このホームページ管理人は、この本の「大草地区」のページをめくり、大草地区在住でこの本に掲載してあった全ての人の項目を読んだ。

 大草地区在住でこの本に掲載してあった戦没者の方は、ほとんどの方が福厳寺にお墓があるようだ。そして、戦没者の方は、20代〜30代の年齢の男の人ばかりであった。しかし、亡くなられた方の履歴・亡くなられた方の戦死理由・亡くなられた方の戦死場所を読むと、ほぼ全員が違う。このホームページ管理人は、一つの地域では、皆同じ戦場に赴いて行ったのだと思いこんでいたのだが、亡くなられた方々の戦死場所を読むと、南方の島やフィリピン、中国南部、中部、北部、朝鮮半島、沖縄、広島、長崎など様々な地域があった。また、戦死理由も皆バラバラで、頭や顔に銃弾を受けて亡くなった方や現地の野戦病院で亡くなられた方、国内の病院で亡くなられた方、終戦と同時に行方不明になった方など、一人一人に違う物語があった。

 日中戦争や太平洋戦争で戦場に赴いて行った兵士のことについて書かれた本は、「きけ わだつみの声」(第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集)が有名である。このホームページ管理人が「小牧市戦没者芳名録 国の礎」の大草地区のページを読んだ後に読んだのは、「七三一部隊元隊員証言記録」であった。(このサイトは現在どこにあるのかわかりませんので、Wikipedia七三一部隊参照してください。)

 昭和16年(1941年)、旧日本軍によるハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まったのだが、日本は、毎年、どこかの島で負け続けた。そして、日本において、米軍による空襲が始まり、昭和20年(1945年)になると、米軍が沖縄を占領し、広島・長崎に原爆が投下された。

 そして、日本は、中国・アメリカ・イギリスの3カ国の首脳の名前で日本の戦後処理方針を記した「ポツダム宣言」を受諾し、昭和20年(1945年)8月15日、天皇によって、終戦が国民に知らされた。昭和20年(1945年)9月2日、日本は、東京湾に浮かぶミズーリ号艦上にて、降伏文書に調印した。以後、6年間、日本は、連合軍による占領政策のもとにおかれることになる。

<参考文献>
「日本歴史」瀬山 健一著 玉川大学通信教育部 平成3年(1991年)3月発行

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「小牧市戦没者芳名録 国の礎」小牧市遺族会 平成11年3月発行