11.太平洋戦争後の動乱の中での大久佐八幡宮〜文化財の喪失〜

 昭和20年(1945年)8月15日に天皇から国民に戦争が終結したことが発表されてから、連合軍が日本に駐留して、日本を統治した。この連合軍による日本の統治は、昭和26年(1951年)に日本がサンフランシスコ平和条約を結び、日本国が独立国家になるまでの6年間続いた。

 連合国は、アメリカ・イギリス・中国・ソ連など11カ国の人間で構成された極東委員会が日本を統治する基本方針を決めていた。そして、極東委員会が日本を統治する基本方針をアメリカ政府に指令として伝え、アメリカ政府が、日本に派遣した連合国軍総司令部(GHQ)に指令を伝え、連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に指令を伝えて、日本が新しい方針で統治されていくという流れで、日本は、改革されていった。そして、連合国軍総司令部(GHQ)が日本政府に伝えた5大改革指令というのが、次のようなものだった。

1.女性の解放

・男女平等普通選挙制度による女性の参政権の保障。

2.労働者の地位向上

・労働組合の結成を奨励。

・労働組合法・労働基準法の公布。

・児童労働の禁止。

3.教育の自由主義化

・軍国主義者の教育機関からの追放。

・修身(戦前に行われていた道徳)、日本歴史、地理の授業停止。

・国家と神道の分離。(神社の社格をなくし、宗教法人法を制定)

・戦前までは必ず学校で読んでいた教育勅語の奉読廃止。

・教育基本法、学校教育法制定。

4.軍隊の解体、治安維持法の廃止

・日本軍の武装解除。

・思想統制の廃止。

・特別高等警察の廃止。

・共産主義者などの政治犯の釈放。

・軍国主義者を公職から追放。

・鉄砲等所持禁止令。

5.経済の民主化

・財閥を解体し、財閥家族を公職から追放。

・自由競争を守るために、独占的な企業結合を禁止し、その監視として、公正取引委員会を置く。

・農地改革により、大地主の土地保有を制限して、制限を超えた土地については、小作人に売り渡した。

 このような方針のもとに、現在、私たちが持っている日本国憲法が、昭和21年(1946年)に公布された。この日本国憲法の特色には、象徴天皇制と国民主権、戦争の放棄、基本的人権の尊重、法のもとの平等があげられる。そして、日本国憲法の公布があって、教育基本法や労働基準法、独占禁止法、地方自治法などの新しい法律が次々と作られた。一方で、連合国は、日本を戦争に導いた戦争犯罪者を裁く極東軍事裁判を着々と進め、東条英機ら7名が絞首刑となった。

 昭和25年(1950年)、朝鮮半島全土を戦場にして、朝鮮戦争が勃発する。この戦争で、100万人以上の兵士が死傷し、民間人の死傷者・行方不明者は、300万人にも達した。しかし、朝鮮戦争が勃発したことにより、日本は米軍の補給・休養基地となり、日本は、そのことによって、大もうけをして、敗戦後の貧しさから立ち直った。このことが、今日の日本の繁栄につながっていく。そして、昭和26年(1951年)、サンフランシスコ平和条約が結ばれ、連合国による日本の占領時代は終わり、日本は独立国家となった。(「Wikipedia 連合国軍占領下の日本」参照)

 さて、話は変わって、昭和20年(1945年)8月15日以後、昭和26年(1951年)に宗教法人法が施行されるまでの6年間、日本中の神社は、混乱の最中にあったことは、想像に難くない。連合国軍総司令部(GHQ)は、昭和20年(1945年)12月、「神道指令」を日本政府に出した。神道指令とは、信教の自由の確立と軍国主義を排除するために、国家行政機関と神社を分離するというもので、この指令によって、それまで神社を格付けていた社格がなくなった。つまり、神社には、郷社も村社も無格社もなくなったのである。具体的な話をすると、神社が例祭を行うときに行政から支払われていた補助金が、神社に入ってこなくなった。祭りを担う若い者は、戦争で亡くなったり、傷ついたりして、人的な面で、神社は存続が危ぶまれていることに加えて、金銭的な面でも神社が例祭を行うのは、非常に困難な状況に直面していたこの時代、どこの神社もその存続に四苦八苦していたであろう。

 一方、昭和21年(1946年)、連合国軍総司令部(GHQ)は、「鉄砲等所持禁止令」という指令を出す。徴兵制度などによって、当時の日本の人々は、銃器や軍刀などの武器を所有していた。そのため、連合国軍総司令部(GHQ)は、日本軍の武装解除の政策の一環として、日本の民間人に向けて、狩猟用・射撃競技用以外の銃器類と、美術用以外の日本刀の所持を禁止する指令を出した。この指令は、現在の「銃砲刀剣類所持等取締法(銃刀法)」という法律に直結している。現在の私たち日本人は、銃や刀を持つことを原則として禁じられており、美術品や骨とう品として価値のある火縄銃等の古式銃や刀剣類を所持する場合には、都道府県教育委員会に登録をしなければならない。(「Wikipedia銃砲刀剣類所持等取締法」参照。)昭和21年(1946年)当時の人々は、連合国軍総司令部(GHQ)による「鉄砲等所持禁止令」を忠実に守り、名刀と言われるような刀でさえも、没収の対象にした。従って、多くの刀剣が、所有者の手によって、損壊・廃棄され、また、所有者が、刀剣を渡したくなくて、隠した場合でも、その結果として、刀を錆びさせてしまったりした。このようにして、この時代に、名刀を含む多くの刀剣が失われた。(「Wikipedia刀狩」参照。)

 連合国軍総司令部(GHQ)によって出された「神道指令」と「鉄砲等所持禁止令」は、当時の神社の特に文化財方面に影を落とすこととなる。例えば、熱田神宮を始めとして、刀を御神体とする神社は多い。そして、多くの神社は、多くの文化財を抱えており、国家からお金が支払われなくなった神社にとって、祭礼の挙行と文化財の保存は、当時の神社の宮司や氏子の頭を悩ます難問題であった。昭和25年(1950年)に施行された「文化財保護法」は、そのきっかけは、昭和24年(1949年)に起きた法隆寺金堂の火災による法隆寺金堂壁画の焼失であると言われているが、実は、昭和20年(1945年)8月15日以後、法隆寺金堂の火災以前から、神社を始めとする宗教施設からの文化財の喪失が問題になっていたという時代の流れの中で施行された法律であったと言える。

 さて、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、昭和61年(1986年)の大久佐八幡宮昭和の大修理の時、著者の波多野氏は、神社の宝物を調査したのだが、昭和12年(1937年)に書かれた「宝物並ニ貴重品台帳」にリストアップされていた神社の宝物のうち、6点の宝物が、所在不明、あるいは紛失していたことが判明した。そして、紛失していた神社の宝物は、なぜか、木製の空の収納箱のみが残されていた。次に、所在不明、あるいは、紛失していた大久佐八幡宮の宝物の表を掲げる。

<現在所在不明のもの>

郷社昇進指令書

昭和12年10月9日日付で、内務省から出された書類

神位記

慶応3年8月1日日付の長さ5尺(約151.5cm)、幅8寸(約24.24cm)の巻物で、大久佐八幡宮が、江戸時代の神社の最高位である正一位の位を取り、「大久佐八幡宮」という名前になったことを証するものである。天皇の御璽も何箇所かに押されている。神位記の内容は、「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)にも記載されている。

宣旨(朝廷から出された書類)

口宣案(口頭で宣旨を述べる案文)

慶応3年8月1日日付のもので、昭和12年の「宝物並ニ貴重品台帳」には、写真が掲載されている。

<紛失したもの(木製の空の収納箱のみが残されていたもの)>

白鞘刀(刀を持つ部分が白木のまま仕上げられたもの)1口(無銘)

「Wikipedia鞘」参照

刃渡り1尺8寸3分(約55.44cm)、来国次の作。昭和13年9月付で、鑑定界の権威である、日本刀剣会顧問、本阿弥光鐐の鑑定書がある。その結果、この刀は、700年以前の作で、国宝級の逸品であり、時価6千円(現在なら、1,000万円は下らない。HP「いまならいくら?」参照)の得難き至宝にて、尾張中納言様の厄除祈願の時、大久佐八幡宮に奉納した物である。

白鞘刀(刀を持つ部分が白木のまま仕上げられたもの)1口

「Wikipedia鞘」参照

刃渡り1尺3寸5分(約40.89cm)、達磨正宗相川綱広の作で、焼刃刀身の反りといい、実に巧妙にできている。本阿弥光鐐が推賞したものである。

古代祥事釜

(このホームページ管理人の推測では、祭りごとの時に使う古代(7〜10世紀)に鋳鉄された釜)

直径1尺2寸2分(約36.96cm)で、銘あり。250年以前の作で、元禄3年(1690年 江戸時代)9月に、郷士である佐橋重左エ門が寄進したものである。神事のときに使用した清浄釜である。

古代祥事釜

(このホームページ管理人の推測では、祭りごとの時に使う古代(7〜10世紀)に鋳鉄された釜)

直径1尺4寸(約42.42cm)で、銘あり。上に準じるものである。

 このホームページ管理人は、これらの所在不明や紛失になった宝物は、どこかに、眠っているのではないかと考えている。(いや、希望というべきか。)特に、木製の空き箱だけを残して、忽然と姿を消した宝物に関しては、木製の空き箱が、その存在を告げているような気がしてならない。もし、お金目的で、神社の宝物をどこかに売り飛ばすつもりならば、宝物も箱も一緒に売ってしまうのではないか?

 このホームページ管理人の推測は、こうだ。

 「(所在不明になった)これらの宝物は、いずれも、大久佐八幡宮の現在ある形を決定付けた、江戸幕府や戦前の政府からの重要な書類ばかりだ。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)は、神社がかつて国から与えられていた位を全てなくし、神社を他の宗教と同様に一つの宗教施設であるとして、国家運営(政治)とは切り離すつもりだ。また、(紛失した)2口の白鞘刀は、連合国軍総司令部(GHQ)が出した「鉄砲等所持禁止令」に抵触する可能性がある。しかし、これらの刀は神社の宝物だ。神社の宝物が没収されたら、神社はその心をとられたも同然だ。そして、連合国軍総司令部(GHQ)は、日本の伝統文化も排斥しようとしている。神社の例祭もあげるなということか。それでは、これらの古代釜も神社にとっては必要なくなるではないか。しかし、これらの宝物は、いくら、連合国軍総司令部(GHQ)に否定されようとも、わたしたち大久佐八幡宮の宮司や氏子の心そのものだ。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)は、これらの宝物を全て没収してしまうかもわからない。だから、連合国軍総司令部(GHQ)が大久佐八幡宮に調査をしに来たときのために、これらの大久佐八幡宮の宝物を、彼らにはわからないような場所に隠してしまおう。」

 このようなやり取りが、大久佐八幡宮の一部の宮司や氏子の間にあって、その一部の宮司や氏子が、上の表に掲げた大久佐八幡宮の宝物を、誰にもわからない所に隠したのではないか。その場所が、個人宅なのか、山の中なのかは、わからない。しかし、今後、大草近辺で家を取り壊す事があったり、開発事業が行われたりした場合に、これらの所在不明・紛失した大久佐八幡宮の宝物が、ひょっこり姿を現す日がくるかもしれない。そんな希望が、このホームページ管理人の頭の中をよぎるのであった。

 そして、昭和26年(1951年)に宗教法人法が施行される。宗教法人法は、信教の自由を尊重する目的で作られた法律で、仏教、キリスト教、イスラム教、神社など、全ての宗教団体に平等に法人の資格を与えることによって、宗教活動をしやすくすることを目的としている。従って、全ての宗教法人は、法人である以上は、合併や解散ができるし、礼拝所の登記もしなければならない。(「Wikipedia宗教法人法」参照)そして、宗教法人となった大久佐八幡宮は、国からの力によってではなく、宮司と氏子による努力によって、例祭を行い、神社を維持していかなければならなくなった。

 戦前まではあった大久佐八幡宮の文化財が散逸していったと考えられる時期は、太平洋戦争後の連合軍による統治時代と、もう一つ、昭和35年(1960年)から昭和50年(1975年)までの高度経済成長時代があげられる。太平洋戦争後の連合軍による統治時代は上のような時代であったが、昭和35年(1960年)から昭和50年(1975年)までの高度経済成長時代は、日本列島は、まさに開発の時代であった。そして、新幹線や高速道路の建設、ニュータウンの建設などと、それに伴う急激な社会生活の変化によって、文化財が多く失われていった時代でもあった。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「東春日井郡誌」大正12年1月発行

「市町村沿革史ー地方自治法施行60周年記念ー」愛知県 愛知県市長会 愛知県町村会 平成19年11月発行