12.高度経済成長の時代と大久佐八幡宮

小牧市大草地域の地図

「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)に、このホームページ管理人がペイントで書き込んだもの。赤い数字のものは、現存する埋蔵文化財包含地。黒い数字のものは、滅失した埋蔵文化財包含地。なお、この画面上に見える黒い三角の数字のものは、全て、古窯跡です。(篠岡古窯跡群)

八田川の写真

上地図の「古宮?」のあたりで撮った八田川の写真である。2011年8月このホームページ管理人撮影。この写真の左端に写っているこんもりとした森が大久佐八幡宮。この写真の右端に写っている山の向こうに大草城や福厳寺がある。この写真は「古宮?」のあたりから八田川の下流に向かって撮られている。この撮影地点の上流にある、八田川の源流付近(太良上池)には、現在、絶滅危惧種に指定されているマメナシ(バラ科ナシ属に属する落葉樹で、木の高さは8〜10m。4〜5月頃、桜に似た白い花をつける。)の自生地がある。(平成23年(2011年)8月愛知県指定天然記念物)

マメナシの花の写真

太良上池ほとりにあるマメナシ自生地にて撮影したマメナシの花。2018年4月26日このホームページ管理人撮影。

また、この写真の八田川は、下流である春日井市下原方面に向かって撮られているが、6世紀初頭の古墳時代、春日井市下原には下原古窯跡群があり、下原古窯跡群で作られた埴輪が、八田川を利用して、更に下原から8km下流にある味美二子山古墳(全長96mの前方後円墳)に運ばれたことが判っている。(「Wikipedia味美二子山古墳」参照)

 昭和26年(1951年)にサンフランシスコ条約が結ばれて、連合国による日本の占領時代が終わり、日本が独立国家になってから4年後の昭和30年(1955年)、小牧町・味岡村・篠岡村が合併して、「小牧市」が誕生した。篠岡村にあった大久佐八幡宮の住所は、「小牧市大字大草字東上2784番地」となった。そして、昭和31年(1956年)、小牧市は、工場誘致条例を制定し、それまでの農業依存の産業を大きく転換して、小牧市の財政基盤の確立のため、積極的な工場誘致と大型団地の誘致を計画する。

 昭和32年(1957年)、渇水に悩む知多半島に木曽川の水を流すべく、愛知用水の工事がスタートし、昭和36年(1961年)愛知用水の工事が完成する。愛知用水は、小牧市の野口・大山地区を通り、小牧ヶ丘の開発につながっていく。(HP「独立行政法人 水資源機構 愛知用水総合管理所」参照)

 昭和34年(1959年)伊勢湾台風がこの地方を直撃し、死者2041人、被害家屋57万戸の大きな被害が出た。伊勢湾台風による被害が特に大きかったのは、名古屋市南区、港区、蟹江町、飛島村、東海市などの海抜が低い場所であった。このような海抜の低い場所に直撃した台風によって、高潮の浸水が発生し、海抜の低い場所に多くの人々が住居を構えていたため、台風の被害は甚大なものになったのであった。そこで、海抜の低い場所に住居を建てるよりも、海抜の高い場所、例えば、丘陵地に住居を構えた方が自然災害による被害は少なくなるのではないか、という考えが持ち上がり、以後、愛知県北部の丘陵地にニュータウンが建設されていくことになる。(「Wikipedia伊勢湾台風」参照)

 さて、話は変わって、昭和35年(1960年)、大久佐八幡宮は、神社名改称願いを申請した。実は、神社の旧社格制度を制定した明治時代の政府は、明治時代の初期に作成した神明名寄帳に、大久佐八幡宮のことを「大久佐八幡社」と誤って記載していた。その後、第二次世界大戦後に宗教法人になってからも、大久佐八幡宮は、「宗教法人大久佐八幡社」となっていたため、宗教法人大久佐八幡宮の役員会は、「大久佐八幡社」を「大久佐八幡宮」と訂正するよう、神社本庁と愛知県に申請したのであった。神社名改称願いの前文には、大久佐八幡宮の由緒を詳しく説明した後、「慶応3年8月には、神階授与における庁宣など関係書類には「正一位大久佐八幡宮」と記載されているにもかかわらず、明治6年或いは明治12年の神明名寄帳に大久佐八幡社と誤記登載したのは、神社の御神威を損傷するも甚だしい。真に遺憾の極みにして、速やかに、旧来のごとく、大久佐八幡宮と改称し、承認を求めんと絶叫する事由必須なり。」と書かれてある。そして、昭和35年(1960年)、神社本庁と愛知県知事から、「大久佐八幡社」は「大久佐八幡宮」と神社名を変更するという承認書と認証書が交付された。なお、現在、神社本庁と愛知県知事から交付された神社名改称願いの承認書と認証書の原本は、いずれも所在不明で、写しのみが残されている。

 昭和35年(1960年)、第2次池田内閣は、「国民所得倍増計画」を決定する。昭和37年(1962年)、小牧市が誘致した工場は、100社を突破した。昭和39年(1964年)東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催される。昭和40年(1965年)、小牧インターチェンジが完成し、小牧と西宮間に名神高速道路が全通した。昭和41年(1966年)、小牧市・岩倉町共同ごみ焼却場が完成し、同じ年、小牧市は工場誘致条例を廃止した。昭和42年(1967年)、公害対策基本法が制定される。同じ年、小牧警察署と小牧市文化財調査委員会が発足する。昭和43年(1968年)、愛知県が、篠岡丘陵に「桃花台ニュータウン」を建設する計画を発表する。同じ年、東名高速道路の小牧・岡崎間が開通した。そして、昭和44年(1969年)、東名高速道路が全線開通する。昭和45年(1970年)、大阪で日本万国博覧会が開催された。同じ年、小牧市は、進出企業と公害防止協定を締結する。昭和47年(1972年)、札幌オリンピックが開催され、沖縄が米軍基地を残して、日本に復帰し、日本と中国の国交が正常化する。同じ年、中央自動車道の小牧・多治見間が完成する。1973年(昭和48年)、石油ショックでガソリン・紙などが品不足となり、スーパーマーケットに買いだめ客が殺到する。同じ年、桃花台ニュータウン用地造成起工式が行われる。昭和50年(1975年)、沖縄国際海洋博覧会が開催され、小牧市の東部にある史跡「大山廃寺塔跡」の本格的調査が始まる。昭和54年(1979年)、アメリカと中国が国交を回復し、国立大学で、初めての共通一次試験が実施された。同じ年、「尾張小牧」のナンバープレートが誕生し、桃花台ニュータウンの宅地分譲が開始された。(倍率は50倍)

 さて、昭和40年代から昭和50年代にかけて、大久佐八幡宮では、大草区民(氏子)と小牧市と宗教法人大久佐八幡宮役員会の間で、最高裁まで争った係争があった。それが、大草保育園を巡る係争である。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)の中で、著者の波多野氏は、この係争について、次のように述べている。

 昭和20年代の終わり頃、大草保育園という小牧市立の保育園が開園していたが、園舎の老朽化が進み、運動場も狭いという市民の声があがり、大草区民は、大草保育園の新規開設を小牧市に要望していた。小牧市は、大草区民の要望を受け入れ、大草保育園の新規開設を決定して、保育園の用地の取得を大草区民に委任した。

 大草区民は、大久佐八幡宮の所有地を大草保育園の新規開設地にするのがいいのではないかと考えた。そして、大久佐八幡宮の氏子総代に働きかけ、大久佐八幡宮の氏子総代会は、大草区民の要望を受け入れた。昭和42年(1967年)9月、大久佐八幡宮の氏子総代会の代表と小牧市長は、大久佐八幡宮の所有地約1,000坪の無償賃貸契約を締結した。そして、昭和43年(1968年)6月頃から、その土地において、大草保育園新規開設のための整地工事が開始された。

 この時、大久佐八幡宮の氏子総代会の代表と小牧市長が、なぜ、宗教法人大久佐八幡宮の役員会に話を通さなかったのかが、このホームページ管理人には不思議に思える点だ。役員会と氏子は、宗教法人大久佐八幡宮という車を動かしていく車の両輪だ。その車のもう一方の輪である役員会を無視した土地の契約は、無効だろう。この時点で、小牧市の側にも配慮が足りなかったと言える。小牧市は、氏子の代表に、「ところで、宗教法人大久佐八幡宮の役員会は、大草保育園新規開設のための大久佐八幡宮の所有地約1,000坪の無償賃貸契約を了承しているのですか?」くらいは、聞くべきだっただろう。例えば、母親が、子供を私立の中学校に入学させることについて、父親に了承を取らないままに、子供を私立の中学校に入学させてしまった、ということと同じレベルの話だと、このホームページ管理人は考えるのだが。

 当然、宗教法人大久佐八幡宮の役員会は、「宗教法人法に基づく神社規則により、責任役員会の議決のない契約は無効である。従って、氏子総代会がこのような土地契約を小牧市と締結する資格はない。」として、小牧市と氏子総代会を相手取り、大草保育園新規開設のための大久佐八幡宮の所有地約1,000坪の土地の明け渡しを求める裁判を起こした。

 「大久佐八幡宮の中に保育園を造ることくらい認めてくれてもいいではないか。なんで、大久佐八幡宮の中に保育園を造ってはいけないのか。」という、氏子総代会と小牧市の主張もむなしく、宗教法人大久佐八幡宮の役員会は、中途の十数回に及ぶ裁判所の和解勧告を受け入れることができず、裁判は、10年間に及んだ。しかし、この10年の間に、大久佐八幡宮の所有地約1,000坪には、工事が終了した大草保育園が、すでに、開園までこぎつけていた。そして、昭和52年(1977年)12月、最高裁は、ついに、最終判決を出した。最高裁の最終判決は、宗教法人大久佐八幡宮の役員会を勝訴とし、小牧市は、大草保育園新規開設のための大久佐八幡宮の所有地約1,000坪の損害金1,094,400円を神社側に支払うこととなった。しかし、大久佐八幡宮の所有地約1,000坪の神社側への明け渡しについては、すでに、大草保育園がそこに開園していることを考慮して、小牧市と神社と地元(区長・母の会)の間で、改めて、土地の賃貸協定を結びなおし、引き続き、大草保育園として使用することになって、裁判は決着した。

 2014年現在、大久佐八幡宮の所有地の中に「大草保育園」という保育園は存在しない。このホームページ管理人は、現在の大久佐八幡宮の駐車場が大草保育園跡地なのではないかと推測しているのだが、誰かに聞いたわけではないので、わからない。しかし、現在の大久佐八幡宮の駐車場が駐車場らしからぬ場所で、なかなか雰囲気のいい大木が生えていたりして、「これ、どう考えても、自然に生えた木ではないなあ。」とこのホームページ管理人が考えただけのことである。

 「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)の中で、著者の波多野氏は、この裁判について、次のように述べている。

 「十年に及ぶ裁判は、多くの大草区民を白けさせ、神社に対して疎外感を抱かせた。とりわけ、保育園母の会の不安は隠しきれなかった。また、(大久佐八幡宮の)本殿・祭文殿・渡り殿などは、すでに修理に着手すべき時機であったにもかかわらず、ほとんど手付かずの状態で、雨漏りなど傷みは急速に進んでいた。」

 著者の波多野氏は、この裁判について記述するにあたり、神社には関係書類が全く残されていなかったため、当時の宗教法人大久佐八幡宮の責任役員の遺族宅に足を運び、遺族宅に保存してあった関係控え資料から、この裁判について記述したそうである。

 大久佐八幡宮の目と鼻の先には、桃花台ニュータウンの建設が着々と進められ、桃花台ニュータウンには、新しくこの土地に来た人が続々と住み始めて、大草の雰囲気も変わりつつあったこの時代、大久佐八幡宮では、氏子と役員会の間で十年裁判が展開されていたことは、このホームページ管理人が「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)を読んで初めて知ったことである。子供の教育は重要だが、子供の教育は、全てのことに優先するものではない、ということをこの十年裁判の記述より学んだこのホームページ管理人であった。

大久佐八幡宮参拝者駐車場入り口の写真

大久佐八幡宮参拝者駐車場入り口。2014年5月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮参拝者駐車場の写真

大久佐八幡宮参拝者駐車場の向こうに桃花台ニュータウンを望む。2014年5月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮参拝者駐車場の中にある雰囲気のいい木

大久佐八幡宮参拝者駐車場の中にある雰囲気のいい木。2014年5月このホームページ管理人撮影。

 そして、科学万博つくば85が開会され、国営公社「日本電信電話公社」が民営化されて、NTTという民営会社が誕生し、日本専売公社からJT(日本たばこ産業株式会社)という民営会社が誕生した昭和60年(1985年)、小牧市では、市内初の大学である名古屋造形短期大学が、小牧市の大草地区に開校した。このような時代の流れの中で、昭和60年(1985年)、大草区民の間から、大久佐八幡宮の荒れた姿は放置できないという声がわき上がり、大久佐八幡宮修復委員会が発足した。昭和61年(1986年)、大久佐八幡宮修復委員会は募金活動に入り、約4千万円の寄付金が集まった。10年裁判で傷ついたかに思えた氏子の神社に対する求心力がよみがえった瞬間だった。

<参考文献>

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年(2001年)7月発行
「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「市町村沿革史ー地方自治法施行60周年記念ー」愛知県 愛知県市長会 愛知県町村会 平成19年(2007年)11月発行

「小牧市史 本文編」小牧市教育委員会 昭和52年(1977年)3月発行

「小牧市制50周年記念 市勢要覧 ダイジェスト版」愛知県小牧市役所 平成17年(2005年)5月発行