13.昭和から平成へ〜大久佐八幡宮昭和の大修復と「大久佐八幡宮伝記」の出版〜

 例えば、伊勢神宮は、20年に一度、神社の宝物から建物に至るまで、全てのものを新しく造り替える。これを「式年遷宮」と言うが、「式年遷宮」が、なぜ、20年というサイクルなのかは、諸説ある。しかし、この20年というサイクルは、建物の耐用年数ではないことだけは確かだ。(「Wikipedia神宮式年遷宮」参照)

 しかし、どんな神社や寺でも、修理をしていかなければ、そこに建ち続けることができないのは、家と同じだ。このホームページ管理人の聞いた話では、家の寿命は、大体、50年位だという話だが、それでは、日本にある寺社建築の修理というのは、大体、どのくらいの間隔で行われているものなのだろうか?日本の国宝・重要文化財に指定されている寺社、城郭等の建物は、100〜150年で小修理、200年で大修理を施しながら、現代まで建ち続けているそうだ。(JFSのHP「樹齢200年の森で木の文化を守る」参照)

 さて、昭和60年(1985年)、大草区民の間から、大久佐八幡宮の修理を望む声がわき上がり、大久佐八幡宮修復委員会が発足した。そして、昭和61年(1986年)に、大久佐八幡宮修復委員会は募金活動を始め、約4千万円の寄付金を集めた。大久佐八幡宮の氏子が約400戸ということだから、氏子だけが大久佐八幡宮修復委員会の募金活動に参加していたとすると、氏子1戸あたり、平均して約10万円の寄付があったということになる。従って、大久佐八幡宮修復委員会の募金活動に参加したのは、神社の氏子だけではなく、非常に多くの人々が、大久佐八幡宮修復のために、募金活動に参加していたと考えざるを得ないのである。

大久佐八幡宮の略図

このホームページ管理人がペイントで作成した大久佐八幡宮の略図である。

 さて、このホームページ管理人は、大久佐八幡宮を3つのブロックに分けてみた。まず、大久佐八幡宮の入り口第一鳥居から第二鳥居までをAブロック、第二鳥居から第三鳥居までをBブロック、第三鳥居から、本殿と稲荷神社までをCブロックとした。昭和61年(1986年)に大久佐八幡宮修復委員会が集めた募金で修復した建物は、ほとんどがCブロックにある。Cブロック以外の場所にある建物で、昭和61年(1986年)に修復した建物は、Bブロックにある手水舎だけである。

Cブロック略図

このホームページ管理人がペイントで作成したCブロック略図である。

 ところで、一番前に拝殿があり、中に祭文殿があり、その後ろに本殿があり、一直線に配置された拝殿・祭文殿・本殿の間を渡り殿でつなぐ左右対称の建築様式を「尾張造」という。(「Wikipedia尾張造」参照)「尾張造」は、尾張地方(愛知県西部地方)独特の建築様式で、名古屋市熱田区にある「熱田神宮」も、1893年(明治26年)に神明造に建て替えられる前までは、尾張造であったと言われている。また、拝殿の手前に建っている「透かし塀」は、尾張地方(愛知県西部地方)独特の建築物で、他の地方の神社では、なかなかお目にかかれない物である。

 昭和61年(1986年)に大久佐八幡宮修復委員会が修復した建物は、本殿・祭文殿・拝殿・渡り殿・透かし塀・手水舎・神明社である。下に、このホームページ管理人が撮影した現在の本殿・祭文殿・拝殿・渡り殿・透かし塀・手水舎・神明社の写真を掲げる。そして、その下に、本殿・祭文殿・拝殿・渡り殿・透かし塀・手水舎・神明社の前回修理した日付、昭和の大修理までの間隔年数、昭和の大修理の工事内容を記述した。

第三鳥居からCブロックを望む

第三鳥居からCブロックを望む。手前に透かし塀があり、その向こうに拝殿の屋根が見える。2014年5月このホームページ管理人撮影。

透かし塀

拝殿の手前に建っている「透かし塀」である。2014年5月このホームページ管理人撮影。

尾張造の大久佐八幡宮

手前の大きく写った建物が拝殿で、渡り殿でつながったその向こうに祭文殿が写り、祭文殿の左右に神明社が写る。そして、祭文殿の向こうには、隠れるように、本殿が写っている。渡り殿でつながった拝殿・祭文殿・本殿が一直線に並ぶ、左右対称の建築様式「尾張造」である。2014年6月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮の拝殿

大久佐八幡宮の拝殿である。拝殿とは、祭祀・拝礼を行うための社殿のことである。(「Wikipedia神社建築」参照)なお、「正一位大久佐八幡宮」と書かれた神号額は、慶応3年(1867年)のもの。神号額の下に見える屋外照明灯は、昭和61年(1986年)の大修復で新しく設置された物である。2013年1月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮拝殿の中の様子の写真

拝殿に掲げられた「小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札」の写真の向こうには、渡り殿があって、正面に祭文殿の入口がある。「祭文」とは、祭りのときなどに、神に対して、祈願や祝詞として読まれる文のことで、「祭文殿」とは、神社の中で、祭文を読む場所のことである。(「Wikipedia祭文」参照)2013年1月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮の祭文殿の写真

大久佐八幡宮の祭文殿は、拝殿と渡り殿でつながっていて、左右には、神明社を配する、神明造りの社殿である。(「Wikipedia神明造」参照)2014年6月このホームページ管理人撮影。

渡り殿横から見た本殿の入り口の写真

祭文殿から本殿につながる渡り殿の向こうに本殿の入口が見える。本殿とは、御神体を安置する社殿のことである。(「Wikipedia神社建築」参照)大久佐八幡宮の本殿には、4つの手の付いた幣帛(祭りのときに神にささげられたものの総称)桧材が納められた、長さ約36.36cm、幅約12.12cmの箱がある。これは、慶応3年(1867年)に神祇官から請け賜わったものである。2014年6月このホームページ管理人撮影。

横から見た大久佐八幡宮本殿の屋根の写真

大久佐八幡宮稲荷神社から本殿の屋根を撮る。本殿は、流れ造の社殿である。(「Wikipedia流れ造」参照)2014年6月このホームページ管理人撮影。

手水舎の写真

Bブロックにある手水舎。(「Wikipedia手水舎」参照)2013年1月このホームページ管理人撮影。

<大久佐八幡宮 昭和の大修復の内容(総工事費約3,360万円)>

修理した社殿前回修理した日付前回との間隔年数工事の内容
本殿1814年(文化11年)172年○拝殿正面から本殿までの見栄えをよくし、二棟の渡り殿の床勾配を同じくするために、本殿の地盤を30cm下げる。
○床などの造り替えと床下部分の腐朽材の取り替え修理。
祭文殿1830年(文政13年)再建
1902年(明治35年)改造(屋根部分)
156年(再建)
84年(屋根部分の改造)
○亜鉛鍍鉄板葺の屋根を緑青銅板一文字葺に葺き替える。
○屋根の頂上部の造り替えや破損部分の修理。
神明社不明不明○屋根部分の桧皮葺きを銅板一文字葺きに葺き替え。
○土台の取り替え。
拝殿1849年(嘉永2年)137年○中庭にゆとりを持たせるために、建物を北へ1.8m移動する。この移動に伴って、拝殿前にある狛犬・石燈籠の移設。
○屋根部分の瓦葺を撤去し、緑青銅板一文字葺に葺き替え、母屋などを新材で組み直す。
○軒先部分の腐朽材の取り替え。
○床、腰部分の造り替えと天井板の取り替え。
渡り殿不明不明○木造の柱や床・腰部分などをを新材に取り替える。
○屋根部分の波型鉄板葺を緑青銅板葺に葺き替える。
透かし塀1884年(明治17年)新しく造立102年○亜鉛鍍鉄板葺の屋根を緑青銅板一文字葺に葺き替える。
○腰板・柱の取り替え。
手水舎不明不明○屋根瓦、小屋組みは既存のまま使用。
○柱、水引は新材に取り替えて移築。
○土間と水吐竜は新設する。

 なお、昭和61年(1986年)の昭和の大修理のとき認められたのは、不良個所が床下、屋根軒先部分に集中していたことだった。そのため、本殿は、厚さ30cmの鉄筋コンクリート板の上に安置され、拝殿の床下土間は、厚さ15cmのコンクリートで覆われている。また、拝殿の工事のために、拝殿の瓦部分を撤去した際に現れた、1849年(嘉永2年)再建当時の小屋組みなどは、堅牢そのものであり、1849年(嘉永2年)再建当時に使用されていた手作りの釘や鬼瓦は立派に残っていた。また、昭和61年(1986年)の昭和の大修理のときは、全社殿の木の部分を薬液にて洗浄し、屋外照明灯を新設した。

 昭和61年(1986年)の昭和の大修理の翌年である昭和62年(1987年)、地価の異常な高騰により、バブル景気が始まる。昭和64年(1989年)1月、昭和天皇が崩御した。昭和天皇の崩御により、昭和の年号が改元されて、昭和64年1月は、平成元年1月となる。平成2年(1990年)に入ると、株価や地価が暴落し、バブル景気は崩壊した。バブルの崩壊は、やがて、金融ビックバンを生み、大手都市銀行は、次々と再編されていった。

 ところで、時代が昭和から平成に入ると、大久佐八幡宮の隣の桃花台ニュータウンの中では、次々と施設が造られていった。桃花台ニュータウンの中には、次々と新しい学校や保育園ができ、ショッピングセンターがオープンし、新交通システム桃花台線が開業した。新交通システム桃花台線は、地域住民の利用が進まず、平成18年(2006年)に廃業となったが、この時期にできた学校や保育園やショッピングセンターは、現在でも、桃花台ニュータウンの住民の生活の要となっている。

 そして、昭和61年(1986年)の昭和の大修理から15年後の平成13年(2001年)7月、波多野孝三氏著の「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」が発行された。このホームページ管理人は、「大久佐八幡宮」のホームページを作るにあたって、波多野孝三氏著の「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」の内容を忠実に表現したつもりである。つまり、波多野孝三氏が「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」を著していなければ、このホームページはできなかった。平成13年(2001年)7月に発行された波多野孝三氏著の「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」を読み終えて、このホームページ管理人が最も感動した箇所は、本の一番最後のページに著者の波多野氏が書いた「結び」の部分である。以下に、波多野氏が書いた「結び」の部分をそのまま紹介する。

「結び」

 私は大草で生まれ大草で育ち大草で老いています。そして大久佐八幡宮に対しては、還暦(60歳)を迎える頃までは産土(うぶすな)の神(生まれた土地の守護神)という認識以外、それ以上の関心も感慨ももったことはありませんでした。それが昭和61年の昭和の大修復と今回の三十六歌仙絵札再現模写事業の委員長として参加する機会を得て、はじめて先人たちの遺産の数々と出会いました。この貴重な資料の存在を多くの人々にご紹介しなければと思い、責任役員の松井敬氏に資料の写真撮影をお願いして写真集を作ることにしましたが、それに私見を交えた解説を付けようとしたのが間違いの元でした。ボキャブラリーの貧困な私には、まともな文章が書けないのです。何度も立ち停まり、ときにはリタイアすることも考えましたが、最後は意味さえ通じればと居直りを決めて書き終えたのが本書です。

 御笑読いただければ幸甚の至りと存じます。また、これまでご支援、ご協力いただきました各位に厚くお礼申しあげます。

 なお本書の出版に際して東海企画 落合重樹氏にご協力をいただきました。

 傘寿(80歳)を迎えて

 波多野孝三

 波多野孝三氏著の「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」が発行された平成13年(2001年)9月、アメリカで同時多発テロが起こり、ニューヨークの世界貿易センタービルが崩壊した。世界は、それまでとは違った方向に向かい始めているようだった。

 そして、平成14年(2002年)、大久佐八幡宮の三十六歌仙絵札と奉納札が小牧市指定有形民俗文化財に指定された。

<参考文献>

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年(2001年)7月発行

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「小牧市制50周年記念 市勢要覧 ダイジェスト版」愛知県小牧市役所 平成17年(2005年)5月発行