14.2014年(平成26年)現在の大久佐八幡宮

大久佐八幡宮の由緒を書いた石板の写真

大久佐八幡宮のBブロックにある、神社の由緒を書いた石板である。2011年8月このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮の由緒を書いた石板の裏側の写真

大久佐八幡宮のBブロックにある、神社の由緒を書いた石板の裏側で、末社(神社の境内または付近にある小規模な神社のこと。詳しくは、「Wikipedia摂末社」参照。)や祭礼の日取りが書かれてある。2011年8月このホームページ管理人撮影。

 いつの頃からか大久佐八幡宮で続いている祭礼は、1年間に8回もある。これらの祭礼は、少なくとも、明治時代の頃から続いていたらしい。太平洋戦争前までは、これら年間8回の祭礼以外にも祭礼が存在していて、祭礼は、元日を除いて、旧暦で行われていた。(自然科学研究機構 国立天文台HP「質問3−4)「旧暦」ってなに?」参照。)その後、太平洋戦争が終わり、いくつかの祭礼は行われなくなったが、現在でも大久佐八幡宮にて連綿と続いている1年間に8回の祭礼は、現在では、旧暦の日付に近い太陽暦の日曜日に行われている。(「kotobank太陽暦」参照。)

 それでは、ここで、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年(2001年)7月発行)の中の「第七章 大久佐八幡宮の神事」のページに基づいて、大久佐八幡宮で行われているお祭りについて、記述してみよう。なお、このページには、現在は行われていないお祭りも記述してある。また、お祭りは、1月に行われているものから順番に記述していくこととする。

歳旦祭(元旦祭)

 一月一日に行われる行事。Wikipedia「歳旦祭」参照。

初午祭

 二月の最初の午の日に行われる稲荷神社の祭礼。旧暦で行う場合は、3月になることもある。「Wikipedia初午」参照。

祈年祭

 私たちが、「今年も一年間いい年でありますように。」と祈るように、神社で、一年の五穀豊穣などを願って祈るお祭りのこと。現在の大久佐八幡宮では、三月上旬の休日に行われている。「Wikipedia祈年祭」参照。

天王祭(祇園会)

 夏の酷暑を無事に乗り切ることができるように祈るお祭りである。戦前までは、旧暦六月十六日に行われていて、祭ばやしや五頭の馬の塔が奉納されていた。(HP「おまんとと棒の手」参照)現在は、大久佐八幡宮での天王祭は、七月の第一日曜日に神事(儀式)のみが行われている。もしかして、大久佐八幡宮の末社にある津島社のお祭りではないだろうか。

浮塵子送り(虫送り)

 浮塵子とは、ウンカというイネの害虫のことで、ウンカが大発生すると、稲の収穫は大打撃を受ける。(「Wikipediaウンカ」参照。)篠岡村誌によると、浮塵子送り(虫送り)というお祭りは、日にちはいつとは決まっていないが、斉藤実盛の像と孔雀などの鳥をわらで作って、神社を出発し、鐘や太鼓を打ち鳴らし、「おんかの神おっくれよう」と唱えながら村の境界まで行き、村の境界にて、わらで作った斉藤実盛の像と孔雀などの鳥を捨てるお祭りであると書かれてある。大草では、戦前までは、旧暦六月、大久佐八幡宮近くの児童が主役となって、わら細工を青竹の先にくくりつけ、春日井市下原町境の生路川堤まで行列していたが、現在は、行われていない。「Wikipedia虫送り」参照。

茅の輪くぐり
 犯した罪や穢れを除き去るための夏の行事で、大久佐八幡宮では、七月上旬、紙の人形を身に付け、輪をくぐりぬける神事が行われる。HP「神明社:茅の輪について」参照。

金刀比羅祭

 大久佐八幡宮の末社に金刀比羅社という祠があり、金刀比羅祭は、金刀比羅社のお祭りと考えられる。大久佐八幡宮では、九月上旬、神楽(神に歌や舞を奉納する神事)を奉納する。金刀比羅社の総本山は、香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮で、祭神は、大物主神である。大物主神は、農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など幅広い徳を持つ神である。しかし、総本山の金刀比羅宮自体は、海上交通の守り神として信仰され、漁師・船員などの海事関係者の崇敬を集めている神社なので、そのような神社の末社が、海とは全く関係がないと思われる大久佐八幡宮にあることが、このホームページ管理人にとっては、非常に不思議に思えてならない。しかし、6世紀初頭の古墳時代、大久佐八幡宮の近くを流れる八田川を利用して、八田川下流の春日井市下原にあった下原古窯跡群で作られた埴輪が、下原から更に8km下流にある味美二子山古墳(全長96mの前方後円墳)に運ばれたことが判っていることから、八田川を行く船の安全を願って、金刀比羅社という末社が造られた可能性はある。

例祭

 戦前までは、旧暦の九月九日(重陽の日)に行われ、篠岡村誌の伝えるところによれば、鎌倉・室町時代の大久佐八幡宮では、旧暦の九月九日(重陽の日)、みこしが出て、流鏑馬なども行われていた。(「Wikipedia流鏑馬」参照。)

 また、明治時代から太平洋戦争前までの旧社格制度のもとでの大久佐八幡宮では、例祭を行うために国からお金が支給されており、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年(2001年)7月発行)によると、大草地域をあげて、かなり大々的に例祭が催されていたようである。その様子は、次のようなものである。

 祭は、普通、三日間にわたり、前日を試楽、当日を祭典、翌日を山おろしといった。祭典の日には、国からの使者(供進使)が来て、各家では、親戚や知人を招いてもてなしていた。祭の主役は、満14歳から満20歳までの青少年であり、上嶋(東上・中島)、切畑嶋、芝崎嶋、西上嶋、大洞嶋の五嶋で組織された青年会において、思い思いの祭事がなされていた。祭事の主なものには、馬の塔(オマントウ)、獅子舞(祭ばやし)、棒の手などがあった。(HP「おまんとと棒の手」参照)

 近隣から借り受けた農耕馬の小さな鞍の上に、高さ50cmほど、上部が六〜八角形の鞍を重ねて、馬の胴にくくりつけたものが、馬の塔(オマントウ)と呼ばれるものである。馬の塔(オマントウ)には、和紙の造花をちりばめた約1m80cmの割り竹を数本、半円形にさしこんだものや、中央部に大きなお供え物を立てて、その周囲に杉の小枝をぎっしりとさしたもの、また、高さ1m50cmほどの榊の木を立てて、その周囲を、こよりで結びつけられた色とりどりの色紙で飾ったものなどがあり、各青年会で伝統の趣向をこらしていた。そして、馬の頭(額)、首、胴、臀部は、赤地の金襴に、金糸や銀糸を使って、龍や虎、松竹梅などの豪華な刺繍を施した、絢爛豪華な織物で飾られた。特に、馬の塔の袴部分は、最も目につく箇所であったので、各青年会とも工夫をこらしていた。

 棒の手は、神社に奉納するための農民による武術で、各青年会によって、棒、木刀、槍、薙刀、大小刀などを用い、演技をした。また、種子島火縄銃をそれぞれ数丁ずつ持参して集合し、人通りの少ない八田川堤防などで、出発の合図などのために発射するといったこともやっていた。

 また、祭ばやしの獅子舞は、屋形に大太鼓や小太鼓を取り付け、横笛などと交替しながら、祭り行列の先頭を行進した。

 以上のように、戦前までは、非常に大々的に行われていた例祭であるが、現在は、祭ばやし保存会、棒の手保存会などの有志による奉納が、十月第二日曜日に行われている。

あげ祭

 例祭の一週間後、もう一度、祭ばやし、五頭の馬の塔、棒の手が例祭と同様に奉納されていた。しかし、現在は、行われていない。

新嘗祭

 宮中行事の新嘗祭にならい、一年の収穫を感謝する神事である。戦前までは、旧暦十一月の卯の日に行われていた。現在は、十二月上旬の日曜日に行われている。

 貞観13年(871年)、駿河国(現在の静岡県大井川以東)井山の住民である井山八郎が、この地(現在の愛知県小牧市大草)に移住して建てた大久佐八幡宮は、1143年後の2014年現在も、この地に建ち、毎年8回の祭礼をこなしている。現在の日本国憲法で戦争を放棄している私たち日本人は、「戦の神」といっても、余り、ピンと来ないかもしれない。しかし、「戦」というのは、何も戦争のことだけではなく、人間は、生きていく上において、どのような場面においても、他人と戦って、その結果、勝ったり負けたりしながら、人生を乗り切っている。つまり、人間にとって、戦のない人生というものは、考えられないのである。だからこそ、大久佐八幡宮のような神社は、1000年以上の時を超えて、現在もなお存在している。そして、時代により、人々によって、祈る「戦」の意味は、千差万別である。

 1986年(昭和61年)に昭和の大修復をした大久佐八幡宮が、次の大修復を迎えるのは、その間、大地震などの天変地異が起きないと仮定して、1986年の150年後である2136年である。つまり、2014年現在から122年後、大久佐八幡宮は、大修復を迎えるのであるが、その頃の日本が、一体、どのような日本になっているのか、皆目、見当もつかない。その頃には、人間は、宇宙に進出して、どこかの天体に1つの国を作っているかもしれない。(機動戦士ガンダムの世界のように。)しかし、人間がどれだけ遠い天体まで行くことが可能になっても、人間から「戦」を取り除くことはできず、「戦の神」は、人間にとっては、必要な神であり続けるだろう。従って、大久佐八幡宮は、いつまでもこの地に建ち続けているに違いない。

<参考文献>

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年(2001年)7月発行

「世界と日本の神々」松村 一男監修 (株)西東社 2006年12月発行