2.平安時代末期〜保元・平治の乱と源平合戦と大久佐八幡宮〜

大草からのぞむ大久佐八幡宮の森

正面には、大草からのぞむ大久佐八幡宮の森が見える。2011年8月このホームページ管理人撮影。

 大久佐八幡宮に残る神社の由緒を記した書類の中で、昭和35年(1960年)5月に書かれた神社名改称願いの前文や江戸時代に編纂された尾張志には、次のような内容の出来事が記されている。

 保元の乱(1156年)では天皇方について勝利した源氏一族であったが、平治の乱(1159年)において、平氏一族と戦った源氏一族は、平氏に敗北し、平安京の都から逃れて東方に向かった。京都から東に逃げた源氏一族の中で、波多野次郎の嫡男(正室の産んだ男子のうち、最も年長の子をさす。「Wikipedea嫡男」参照。)が、偶々、現在の小牧市大草の里に逃れてきて、貞観13年(871年)に駿河の国から移住してきた井山八郎が創建した大久佐八幡宮を見つけた。源氏一族は、八幡宮を武神として崇敬していたため、波多野次郎の嫡男は、自分が逃れてきた大草の里に八幡宮の社があることを非常に喜び、「これは、めでたいことの前兆である。」として、深く帰依をした。そして、密かに、波多野氏一族郎党の武運長久を祈って、八幡神を敬い、先祖を崇拝する中心とした。

 波多野氏一族が大久佐八幡宮に身を隠したこの頃、平氏の権力は増大の一途をたどり、「平氏にあらずは人にあらず。」とまで言われるような世の中になっていた。波多野氏一族は、二十有余年、大久佐八幡宮にて潜伏生活を送ることを余儀なくされた。平氏の権勢が傾き始めたのは、1180年に、源頼政と以仁王が「平氏打倒」の令旨を全国に発して、平氏に対して挙兵してからである。そして、その後5年間、平氏と源氏の争乱は、全国に波及した。この5年間で、源氏は平氏を徐々に追い詰めていった。

 しかし、この5年間の源氏と平氏の争いにおいて、平氏の旗色が完全に悪くなった一つの節目は、平清盛が1181年に死去したことであろう。その後、1183年、平氏一族は京都六波羅の都を捨てて、西海に逃げた。平氏一族は源氏に追い詰められて、西へ西へと退却していった。そして、1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡した。

 源頼朝が平氏を壇ノ浦の戦いにおいて滅亡させたという知らせは、大草に住む波多野氏一族のもとにも伝わった。二十有余年、大草にて潜伏生活を送ってきた波多野氏は、平氏滅亡の知らせを聞いて、安堵の胸をなでおろし、波多野氏の心の中には、ようやく、真昼が訪れたようであった。そして、波多野氏が平氏が滅亡したという知らせを聞いた文治元年(1185年)、波多野氏は、源氏一族の支援を受けて、当時大草の片隅にひっそりとたたずんでいた小さな大久佐八幡宮を、大草字東上にある広大な敷地に移転させた。そして、大久佐八幡宮は、祭文殿、拝殿、水舎などを完備して、大草を含む尾北地方における大社としての格式を備えた。大久佐八幡宮のお祭りとして、神社の広大な敷地の中では、御輿遊幸や流鏑馬が行われた。

<参考文献>

「日本歴史」瀬山 健一著 玉川大学通信教育部 平成3年(1991年)3月発行

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行