3.鎌倉時代〜源氏一族の支援〜

大草からのぞむ大久佐八幡宮の森

正面には、大草からのぞむ大久佐八幡宮の森が見える。2011年8月このホームページ管理人撮影。

 波多野氏が平氏が滅亡したという知らせを聞いた文治元年(1185年)、波多野氏は、源氏一族の支援を受けて、当時大草の片隅にひっそりとたたずんでいた小さな大久佐八幡宮を、大草字東上にある広大な敷地に移転させた。そして、大久佐八幡宮は、祭文殿、拝殿、水舎などを完備して、大草を含む尾北地方における大社としての格式を備えた。また、毎年、重陽の日(旧暦の9月9日 現在の10月頃 菊の節句とも呼ばれている。「Wikipedia重陽」参照。)には、大久佐八幡宮のお祭りとして、神社の広大な敷地の中で、御輿遊幸や流鏑馬が行われた。

 大久佐八幡宮の由緒を記述した様々な書類の内容から読み取れること、それは、鎌倉時代、源氏一族の支援によって再建された大久佐八幡宮は、現在の様子とは比べ物にならないほど、敷地や祭り行事が大きな神社だったということだ。現在の大久佐八幡宮に残っている神社の宝物には、鎌倉時代のものは存在していない。

 記録に残る、大久佐八幡宮の宝物の中で、一番古い物は、紛失したとされ、収納箱だけが残されていた白鞘刀一口である。昭和12年(1937年)当時の記録によると、鑑定の結果、この白鞘刀は、700年以前の作である、とのことである。700年以前の作である刀は、現存しているものは全て直刀である。反りが入った刀は、平安時代初期以降のものであると考えられる。(「Wikipedia日本刀」参照)その他の神社の宝物や建物・石灯篭などは、全て、江戸時代以降のものばかりである。

 そのような大久佐八幡宮の宝物の中には、文政10年(1827年江戸時代後期)に書かれた社地実測図(大久佐八幡宮の広さを測ったもの。)というものが残されている。この社地実測図は、6尺3寸(約190cm)の間竿を用い、隣地の人の立会いのもとに実測したものである。この結果、文政10年(1827年江戸時代後期)当時の大久佐八幡宮の敷地は、7,990坪あり、現在ある大久佐八幡宮の敷地の約6倍の広さがあった。

 大久佐八幡宮は、豊臣秀吉の時代(16世紀後半)に太閤検地によって、社領を没収されたと、尾張志や神社の由緒を記した書類が伝えている。しかし、豊臣秀吉の時代以後、江戸時代になっても、大久佐八幡宮の社地が現在の約6倍の広さがあったということは、神社の広大な敷地の中で、御輿遊幸や流鏑馬が行われていたとする鎌倉時代の大久佐八幡宮の大きさは、想像できないほど広い、ということになる。

 鎌倉時代に入ると、平安時代末期頃(12世紀前半)まで大草の隣の篠岡丘陵に存在していた窯業地帯(篠岡古窯跡群)は、全て、多治見や瀬戸などに移転している。つまり、窯業地帯が多治見や瀬戸に移転して、人がいなくなった大草の地方に、現在では想像できないほど広大な敷地を持つ、源氏一族の支援によって再建された大久佐八幡宮が建っていたのである。大久佐八幡宮のあるこの地方で、鎌倉時代に、大久佐八幡宮に匹敵するほどの大きさの施設が他にあったとしたら、それは、隣の大山の山の中に再建された大山廃寺ということになるが、大山廃寺は、鎌倉時代には、まだまだ再建途上にある山寺だった。

 鎌倉時代以降、室町時代にかけての中世が、大久佐八幡宮が最も規模が大きく、祭りも盛んに行われていた時代であると神社の由緒を述べる様々な書類が伝えている。源氏一族の支援によって、鎌倉時代に再建された大久佐八幡宮は、源氏一族が滅んで、北条氏が実権を握り、北条氏がその勢力を拡大し、新田義貞が鎌倉を攻めて北条氏が滅び、鎌倉幕府が滅んでも、時代の波に乗って、その規模を保持し続けることができた。一方、中世以降の時代は、大久佐八幡宮にとっては、試練の連続であったと言えよう。しかし、中世の時代に存在した大久佐八幡宮の記憶が、大久佐八幡宮の氏子や地域の人々の心の中に存在していたからこそ、大久佐八幡宮は、現在もなお存在しているのだとこのホームページ管理人は考える。

<参考文献>

「日本歴史」瀬山 健一著 玉川大学通信教育部 平成3年(1991年)3月発行
「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「小牧 中学校編」小牧市教育委員会 2007年(平成19年)3月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行