4.室町時代〜地域の寺社と大久佐八幡宮〜

小牧市大草地域の地図

小牧市大草地域の地図は、「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)に、このホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。赤い数字のものは、現存する埋蔵文化財包含地。黒い数字のものは、滅失した埋蔵文化財包含地。なお、この画面上に見える黒い三角の数字のものは、全て、古窯跡です。

 大久佐八幡宮に残っている郷社昇格願添付書類に記された内容と、「尾張名所図会 後編 巻四」(明治13年 岡田啓・野口道直共著 小田切春江 編纂)に書かれた「福厳寺」についての記述内容と、「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)に書かれた「西尾式部道永」についての記述内容を総合して考えると、室町時代における大久佐八幡宮に関するこのホームページ管理人の解釈は、次のようになる。

 文安(1444年〜1449年 室町時代)の頃、三河の西尾城主であった西尾道永という武士が、大草村に来て、居城を構えた。(「大草城」のページ参照。)大草村に来た西尾道永は、盛禅という名の僧に深く帰依をし、福厳寺という寺を創建した。(「福厳寺」のページ参照。)そして、福厳寺の堂宇を造るにあたって、福厳寺が大久佐八幡宮の神域に入ってしまうことを恐れて、大久佐八幡宮の社殿を、東上から古宮という場所に遷した。

 現在、大久佐八幡宮は、東上という場所にあり、現在の大久佐八幡宮のある場所から、福厳寺までは、直線にして、およそ、1.3kmの距離がある。つまり、室町時代における大久佐八幡宮の神域は、現在の場所から、少なくとも福厳寺あたりまではあった、というのが、このホームページ管理人の解釈である。ということは、現在大草の地に建っている住宅なり田んぼなりは、ほとんど全てが、室町時代には、大久佐八幡宮の領地だった、ということになる。

 このように大きな領土を持った大久佐八幡宮の社殿を、東上から古宮という場所に遷した西尾道永の大草における権力とは、何と絶大なものだったのだろう。現在でも福厳寺の本堂裏にある西尾道永の立派な墓(他のどの墓よりも目立って、すぐに西尾道永の墓だとわかる。)を見れば、そのことも納得できる。

 大久佐八幡宮は、時代が鎌倉時代から室町時代に変わっても、地元において、その規模を保持し続けることができた。しかし、福厳寺が創建される1476年(文明8年)、大久佐八幡宮は、西尾道永によって、社殿を東上から古宮の地に遷されることになる。この時、大久佐八幡宮の規模には、変化がないものの、社殿を遷されたという事実は、その後の時代に大久佐八幡宮に訪れる出来事の前触れのように、このホームページ管理人には思えてならない。

 福厳寺が創建された1476年(文明8年)は、京都の街を戦場にして10年間続いた応仁の乱が終わる1年前にあたる。応仁の乱が終わると、世の中は、群雄割拠・下剋上の世の中(戦国時代)になった。実力のある戦国大名は、地方をうまく治めて、自分の領土を拡大していったし、実力のない者は、いくら家柄が良くても、没落していった。様々な戦国大名が現れては消えていく時代が90年ほど続き、織田信長という人物が歴史上に登場する。織田信長が天下統一を果たそうと活躍していた頃、京都の朝廷は、没落しかけていた。京都の朝廷を没落から救ったのは、織田信長だ。そして、織田信長は、室町幕府を滅ぼし、時代は、安土・桃山時代を迎える。そして、安土・桃山時代の40年間は、大久佐八幡宮にとっては、試練の時を迎えるのであった。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「小牧 中学校編」小牧市教育委員会 2007年(平成19年)3月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「東春日井郡誌」大正12年1月発行

「尾張名所図会 後編 巻四」岡田啓・野口道直共著 小田切春江編纂 明治13年発行