5.織豊時代と大久佐八幡宮〜小牧長久手の戦いと太閤検地〜

小牧市大草地域の地図

小牧市大草地域の地図は、「小牧市遺跡分布地図」(小牧市教育委員会 1991年3月発行)に、このホームページ管理人がペイントで書き込んだものである。赤い数字のものは、現存する埋蔵文化財包含地。黒い数字のものは、滅失した埋蔵文化財包含地。なお、この画面上に見える黒い三角の数字のものは、全て、古窯跡です。

 「東春日井郡誌」(大正12年(1923年)1月発行)や「篠岡村誌」(昭和2年(1927年)3月発行)、大久佐八幡宮に残る「郷社昇格願添付書類」が語る大久佐八幡宮の由緒の記述で、異口同音に語られるのは、「豊臣秀吉が権力を掌握した時代に、大久佐八幡宮は、社領を没収されたために、御輿遊幸や流鏑馬など、それまで行われていた神社の祭り事はことごとく絶え、慶長年中(1596年〜1615年)に、神社の社殿を古宮から現在ある東上に遷した。」という内容である。この内容の神社の由緒を読んで、誰もが疑問に思うこと、それは、「なぜ、豊臣秀吉は、大久佐八幡宮の社領を没収しなければならなかったのか?」ということだ。この疑問に明確に答えを出している書類や本は、現在までのところ、存在していない。従って、この疑問にあえて答えるとしたら、それは、このホームページ管理人が想像して書く小説の世界のシナリオによってしか、答えを提示することができない。このことに関して、このホームページ管理人は、江戸時代における大久佐八幡宮と尾張徳川家(徳川幕府御三家のうちの一つ)との密接な関係から時代をさかのぼって、なぜ、大久佐八幡宮が尾張徳川家(尾張藩)から「尾北の鬼門防除の神」として信仰されたのかを考えた結果、その原点は、「小牧長久手の戦い」にあるのではないかと考えた。

春の大久佐八幡宮の写真

2014年4月にこのホームページ管理人が撮影した大久佐八幡宮の入り口の鳥居。赤い鳥居の隣に「郷社 正一位大久佐八幡宮」という石標柱が見えるが、この石標柱は、昭和13年(1938年)9月に建設されたもので、この字は、元尾張藩主侯爵徳川義親閣下の筆によるものである。

 それでは、小牧長久手の戦いとは、どのような戦いだったのか、ここで、簡単に説明してみよう。

 豊臣秀吉と徳川家康は、お互いの人生の中で、たった一度だけ、戦いを交えたことがある。その戦いこそ、「小牧長久手の戦い」であった。この「小牧長久手の戦い」は、実は、現在の愛知県小牧市内にある場所のほとんどを戦禍に巻き込んだ戦いだった。「尾張名所図会」によると、大草の福厳寺は、「小牧長久手の戦い」による兵火で、一旦、焼失している。「小牧長久手の戦い」は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて行われた戦いであるが、この戦いを説明するためには、天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変で明智光秀に攻められて、49歳で自殺したことにさかのぼらなければならない。

 天正10年(1582年)、織田信長は、家臣明智光秀の謀反によって、本能寺の変で、自刃をして、果てた。豊臣秀吉は、その後まもなく、「山崎の戦」で、明智光秀を討った。そして、信長の跡目相続の話し合いが清須城にて行われた。これが、「清須会議」で、この「清須会議」において、織田信長の二男信雄が尾張(愛知県西部)を相続し、三男信孝が美濃(岐阜県南部)を相続することが決定された。そして、秀吉は、信長の孫、三法師の後見人となった。しかし、この会議の内容に不満を持ったのが、信長の三男信孝だった。

 秀吉は、信長の三男信孝が、清須会議の決定に不満を持っていることを知ると、信長の三男信孝と仲の悪かった信長の二男信雄と手を結び、信長の三男信孝を攻めて、孤立させた。結果、秀吉によって、信長の三男信孝は自害に追い込まれた。この一連の顛末を秀吉のそばで見ていた信長の二男信雄は、秀吉の勢力拡大に身の危険を感じ、徳川家康に助けを求めてきた。家康は、信長の二男信雄の助けを求める声を承諾して、信長の二男信雄と共に、秀吉と対峙する決意を固めたのだった。

小牧・長久手合戦砦の配置図

「小牧の文化財第二十集 小牧の歴史」の中の「Y 秀吉VS家康 小牧・長久手の合戦」36ページ「両軍の布陣」の図を基にして、このホームページ管理人が作成した小牧・長久手合戦砦の配置図である。

 小牧長久手の戦いのきっかけは、信長の二男信雄が、秀吉と通じたという噂のあった老臣3人を呼び出し、殺害したことである。1584年(天正12年)3月のことであった。その知らせを聞いた秀吉は、出陣を命じ、家康は、兵15,000を率いて清須城に入り、信長の二男信雄と合流した。すると、秀吉から信頼の厚かった池田恒興という武将が犬山城を奇襲して陥落させ、清須城にいた織田・徳川連合軍を威嚇した。池田恒興が犬山城に入ったことを知った徳川家康は、織田信長が昔居城とし、廃城となっていた小牧山城に陣を構えた。徳川家康は、部下に命じて、小牧山に二重の土塁を築き、城の入り口を整備し、空堀をめぐらして、小牧山城を賢固な要塞とした。そして、徳川軍は、その他にも砦をいくつか築いて、戦いの備えを万全にしていった。

 一方、池田恒興の娘婿であり、信長と共に本能寺の変で討ち死にした森蘭丸の兄である森長可という武将は、兵3,000と共に、池田恒興軍に合流しようとして、羽黒の八幡林に布陣をした。しかし、森長可と兵3,000は、羽黒の八幡林で家康軍に大敗してしまった。(これを「八幡林の戦い」という。)森長可が八幡林の戦いで大敗したという知らせを受けた豊臣秀吉は、3万の兵を率いて、池田恒興のいる犬山城に入った。そして、秀吉は、小牧山を北東から包囲するように砦を築かせて、秀吉の部下を配置していった。

 そして、部下に命じて整備させた小牧山城に徳川家康と織田信雄が入り、ここに、徳川・織田連合軍と秀吉軍との戦いの火ぶたが切って落とされた。しかし、小牧長久手の戦いは、関ヶ原合戦のような、血で血を洗うような戦いではなく、徳川・織田連合軍と秀吉軍が、お互いの陣地を張りながらも、両軍が相手を挑発しあいながら、出方を伺う持久戦であった。秀吉軍と織田・徳川連合軍の実力は五分五分であり、つまり、動いた方が負けるというにらみ合いの戦いが、小牧長久手の戦いであった。

小牧・長久手合戦地域図

このホームページ管理人が、愛知県白地図の上にペイントで書き込んだ小牧・長久手合戦地域図。

 1584年(天正12年)4月に入ると、秀吉軍と織田・徳川連合軍は、姥ヶ懐(小牧新町)への秀吉軍の来襲や二重掘砦への家康軍の夜襲などを行って、お互いの出方をうかがっていた。この頃、秀吉軍の武将である池田恒興と森長可は、秀吉に、家康の本拠地岡崎城攻めを提案していた。これが、「中入り」と言われる作戦で、家康の本拠地岡崎城を攻めれば、驚いた家康は、小牧山城から動いて、岡崎城に移動するだろう、その間に、秀吉軍が小牧山城を奪還すれば、秀吉軍はこの戦いに勝利するであろう、というものだった。小牧山城は、この戦いにおいて非常に重要な要塞で、秀吉も、小牧山城を奪還したいという思いがあった。そこで、秀吉は、犬山城から楽田城に本陣を移し、三万七千余りの軍団を編成して、「中入り」作戦の実行に移った。夜のうちに、秀吉の軍は、楽田城から物狂峠を越えて、池之内から大草を通り、春日井の関田・篠木から庄内川を渡って、長久手方面へ向かった。

 「大きな秀吉軍の隊が、何隊にも分かれて、池之内・大草・関田・篠木を通って、東南の方面に向かっている。」

 このような情報が、篠木の農民から小牧山城にいる家康のもとにもたらされると、家康は、秀吉が岡崎城に向かっているのではないかと察知し、先遣隊を小幡城に向かわせた。そして、家康自らも九千三百の隊を編成し、小牧山城を離れて、小幡城に入った。

 徳川・織田連合軍総勢9,300は、長久手に入ると、色金山にて軍議を開いた。そして、徳川・織田連合軍は、秀吉軍と合流しないうちに富士ヶ根に移ることを決め、仏ヶ根前山(長久手古戦場)に陣を敷いた。そして、秀吉軍9,000が仏ヶ根前山(長久手古戦場)に到着し、徳川・織田連合軍9,300との間で戦いが始まった。これを長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)という。この戦いで、秀吉軍の池田恒興と森長可の二人の武将が命を落とした。長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)は、徳川・織田連合軍の大勝利に終わった。長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)における死者の数は、徳川・織田連合軍が510人、秀吉軍が2,500人であった。

 長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)で勝利をおさめた徳川家康は、小幡城に入った。秀吉は、楽田城で、長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)での敗戦と池田恒興と森長可の二人の武将の落命を聞いて、2万の兵を率いて救援に向かい、夕方ころ、名古屋市守山区の竜泉寺に到着した。そして、秀吉は、徳川家康のいる小幡城を攻める計画を立てた。しかし、その日の夜、徳川家康は、密かに小幡城を出発し、小牧山城に帰って行った。世が明けてからそのことを知った秀吉は、なすすべもなく、2万の兵を率いて、楽田城に戻った。

 その後、秀吉軍と徳川・織田連合軍のにらみ合いは続いたが、長久手の昼合戦(仏ヶ根の戦い)のような大きな合戦をすることはなかった。そして、1584年(天正12年)5月、秀吉軍の主力は、大阪に引き上げていき、それを見ていた徳川・織田連合軍も兵を引いた。

 その後、1584年(天正12年)11月、秀吉は、桑名にて、織田信雄と直接会って、和睦した。また、岡崎に兵を引き上げた家康も秀吉と和睦し、家康は、秀吉の臣下となった。こうして、豊臣秀吉は、1598年(慶長3年)に63歳で亡くなるまで、天下統一を続けたのであった。

 以上が、小牧長久手の戦いの大体のあらすじである。小牧長久手の戦いが終わった翌年の1585年(天正13年)、秀吉は、関白となり、その翌年の1586年(天正14年)、秀吉は太政大臣となって、豊臣姓を賜わり、豊臣秀吉と名乗るようになる。その後の豊臣秀吉は、太閤検地を行い、刀狩令を実施し、身分統制令を出し、朝鮮出兵を行って、1598年(慶長3年)に63歳で亡くなる。秀吉は、自分の死が近いことを悟ると、徳川家康に対して、秀吉の子の秀頼の後見人になるように依頼している。しかし、徳川家康は、豊臣秀吉の死後、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、豊臣勢を破り、徳川幕府を開いた後の1615年(元和1年)、大坂夏の陣で、秀頼を自害に追い込んだ。

 さて、話は元に戻って、この小牧長久手の戦いは、1603年(慶長8年)に、徳川家康が征夷大将軍となって、徳川幕府を開くまでになることを予見させる出来事となった。そして、小牧長久手の戦いにおいて、秀吉軍が優位に立つことができなかった、むしろ、秀吉の大事な部下を二人も死なせてしまった原因は、「中入り」作戦の実行にあることは、明白な事実だった。秀吉は、小牧長久手の戦いから大阪城に身を引いてから、このことを、大阪で、じっくり検討していた。そして、なぜ、「中入り」作戦の情報が徳川・織田連合軍に漏れたのか、秀吉は、じっくり考えていた。

 秀吉も家康も勝つ自信のない戦はしない、ということが、基本的なスタンスだったはずだ。だからこそ、小牧長久手の戦いでは、秀吉も家康も、お互い相手を見据えながらも、勝つ自信のない戦はしなかったのである。そのような中で、「中入り」作戦を提案した池田恒興と森長可の二人の大事な秀吉の部下に対して、なぜ、秀吉は、ノーと言わなかったのだろうか?秀吉は、本当にこの作戦を使えば、織田・徳川連合軍に勝つことができる自信があって、作戦を実行したのだろうか?戦において、作戦を実行するときには、作戦を遂行する土地に住んでいる地元の人々の理解が不可欠だということを秀吉は知っていたのだろうか?このあたりの秀吉の読みの甘さが、結果的に、秀吉の大事な二人の部下を死に至らしめる結果になったのだ。秀吉は、余りにも、尾張平野の地元の事を理解していないままに、大阪城から犬山城に来てしまったのではないだろうか。それに比べて、徳川家康や織田信雄は、恐らく、尾張平野の地元のことを理解しながら、小牧山城にいたのではないかとこのホームページ管理人は考える。

 ところで、前のページで述べたように、平安時代末期、平治の乱で敗れた源氏の末裔である波多野氏が、たまたま、大草に逃れてきて、大久佐八幡宮を一族郎党の武運長久と敬神崇祖の涵養を計る中心の神社とした。そして、平氏が滅亡し、源頼朝が政権を握る鎌倉時代になって、源氏の支援によって、大久佐八幡宮は、少なくとも、福厳寺に至る、直線距離にして1.3kmの間を神域とする巨大な神社となり、神社の行事として、流鏑馬や御輿遊行も行われるほどの神社となった。小牧長久手の戦いが行われた安土・桃山時代は、平安時代までは窯業地帯であった篠岡の丘は、窯業地帯が多治見や瀬戸に移ったため、人が余り住んでいない丘となっていた。大山にあった巨大な山岳寺院大山寺は、安土・桃山時代には、衰退していて、その法灯を継いだのは、江岩寺だった。そのような地域の中で、大久佐八幡宮は、その規模の大きさから、地元の中では、やけに目立つ存在だった。

 徳川家康は、「論語」や「史記」などの中国の書物を愛読する傍ら、日本の平安時代末期から鎌倉時代にかけての時代の動きを日記風に書いた「吾妻鏡」を愛読し、源頼朝を尊敬していたと言われている。徳川家康は、大久佐八幡宮のことを知っていたのだろうか?徳川家康は、小牧山城に来た時に、源氏の支援によって大きくなったという大久佐八幡宮のことを部下あるいは地元の人から聞いて、知っていたのではないかとこのホームページ管理人は考える。そして、徳川家康は、小牧山城にいたときに、実際に、その目で大久佐八幡宮を見て、その大きさに感動したのではないだろうか。そして、徳川家康は、大久佐八幡宮の中に入って、宮司や氏子たちと「自分も源頼朝を尊敬している。」というような話をしたことがあるのではないか。その時、徳川家康と大久佐八幡宮の宮司や氏子たちとの間には、何か共感するものが芽生えたのではないか。そして、小牧長久手の戦いの「中入り」作戦の実行の際、秀吉の大軍が4回に分かれて、大久佐八幡宮の神域の中を通過していったのを見て、大久佐八幡宮の氏子の一人でもあった篠木の農民が大久佐八幡宮の宮司らの名前を通じて、徳川家康にその情報を提供し、徳川家康は、大久佐八幡宮の名前のもとにその情報を信じて、小幡城に向かったのではないだろうか。徳川家康と織田信雄は、大久佐八幡宮を通じて、地元の理解を深めていったのであり、このことが、秀吉が小牧長久手の戦いで優位に立つことができなかった要因であるとこのホームページ管理人は考える。

 秀吉は、自分のブレーンと共に、大阪城で、上にあるような愛知県の地図を眺めながら、いつ、どこで、誰が、秀吉軍の「中入り」作戦の実行を織田・徳川連合軍に漏らしたのかを検討していた。そして、織田・徳川連合軍が、岡崎城に移動していく秀吉軍を長久手古戦場で待ち伏せたという時間的経緯から考えて、その情報は、比較的早い段階から漏れていたと考えざるを得ないのだった。秀吉は、「中入り」作戦の実行のため、楽田城から、3万7千余りの秀吉軍を4回に分けて、岡崎城に動かしていった。しかし、秀吉が一番最初に、「中入り」作戦提案者の池田恒興と森長可の二人の武将がいる先遣隊9,000の部隊を動かした直後くらいから、情報は漏れていた。秀吉は、自分が「中入り」作戦の実行のために軍隊を楽田城から動かして、その軍隊が長久手古戦場に到着するまでのルートの洗い出しを行った。そして、秀吉軍が楽田城から物狂峠を越えて、池之内・大草を通りすぎたあたりで、一つの大きな神社の中を秀吉軍が通過していったことに、秀吉は気がつくのである。その神社は、人が余り住んでいない地域の中にあるにしては、不自然に大きな神社であった。秀吉は、部下にこう命じた。「楽田城から物狂峠を越えて、池之内・大草を通りすぎたあたりにあるこの大きな神社を太閤検地の対象にして、この神社を徹底的に調べよ。」

 そして、大久佐八幡宮に秀吉による太閤検地が行われたのは、小牧長久手の戦いが終わって、秀吉が関白になった1585年(天正13年)のことであった。大久佐八幡宮に検地に入った秀吉の部下たちは、大久佐八幡宮を徹底的に調べ上げ、徳川家康が大久佐八幡宮の宮司や氏子たちと会って、話をしていた事実を突き止めた。

 「やはり、小牧長久手の戦いの「中入り」作戦実行の際、秀吉軍が神社の敷地内を通過していったことを徳川・織田連合軍に密告したのは、大久佐八幡宮の宮司や氏子たちであったか。大久佐八幡宮の宮司や氏子たちが徳川家康に密告していなければ、「中入り」作戦提案者の池田恒興と森長可の二人の武将を長久手古戦場で死なせることはなかったのだ。池田恒興と森長可の二人の武将の命を奪った代償に、大久佐八幡宮の社領を没収する。もし、この命令に従わない者がいたら、その者がたとえ、神社の宮司や氏子であっても、切り捨てるように。」

 秀吉のこの命令は、すぐに実行に移された。大久佐八幡宮の社領は没収され、社領が少なくなったことにより、神社の神事であった流鏑馬や御輿遊行などは行われなくなった。室町時代までは大きな神域を持っていた大久佐八幡宮は、村の小さな神社と化した。

 秀吉の太閤検地によって、社領をことごとく奪われた大久佐八幡宮は、その後、どうしたであろうか。恐らく、大久佐八幡宮の宮司や氏子は、岡崎城にいる徳川家康に相談にいったのではないかと、このホームページ管理人は想像する。そして、徳川家康の助言により、大久佐八幡宮の宮司や氏子は、大久佐八幡宮の社領が没収されてから10年位は、秀吉に反発することもなく、小さな神社の中で、じっと耐えていたのだろう。しかし、1596年(慶長元年)以降に、大久佐八幡宮の宮司や氏子は、社領が少なくなった大久佐八幡宮の社殿を整備し、社殿を古宮から現在ある東上に遷した。

 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉は病気で倒れ、間もなく死去する。徳川家康は、豊臣秀吉が死去する直前、秀吉から遺言を聞いていた。秀吉は、徳川家康に、政治のこと、豊臣家のことをよろしく頼むと言い残して、死んでいった。

 1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで、徳川家康は、豊臣勢を負かして、全国統一を完成した。1603年(慶長8年)徳川家康は、征夷大将軍となり、江戸幕府が開かれる。そして、1615年(元和元年)大阪夏の陣で、豊臣秀吉の後継者である秀頼は自害に追い込まれた。ここに豊臣氏は滅んで、江戸幕府の幕藩体制は固まるのである。

 徳川幕府の御三家である尾張藩は、歴代の尾張藩主も源氏の末裔であることにより、大久佐八幡宮を崇敬し、尾北の鬼門防除の神として、信仰を厚くした。徳川家康は、大久佐八幡宮の宮司や氏子たちと共に覚えた共感を忘れてはいなかったのだった。

<参考文献>

「日本歴史」瀬山 健一著 玉川大学通信教育部 平成3年(1991年)3月発行

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「小牧 中学校編」小牧市教育委員会 2007年(平成19年)3月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「小牧の文化財 第二十集 小牧の歴史」小牧市教育委員会 2005年(平成17年)3月発行

HP「Wikipedia徳川家康」