6.江戸時代初期〜徳川幕府と大久佐八幡宮〜

春の大久佐八幡宮

赤い鳥居の隣に「郷社 正一位大久佐八幡宮」という石標柱が見えるが、この石標柱は、昭和13年(1938年)9月に建設されたもので、この字は、元尾張藩主侯爵徳川義親閣下の筆によるものである。2014年4月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮を入口から撮影した。

 大久佐八幡宮に伝わる書類(昭和35年(1960年)5月付神社名改称願いの前文)には、次のようなことが記されている。

 大久佐八幡宮では、次のように、伝え聞いている。大久佐八幡宮が大きく成長したのは、源氏一族の支援によるという歴史的事実と同様に、徳川御三家の1つである尾張藩主もまた、源家の末裔である。従って、尾張藩は、この大久佐八幡宮を崇敬し、尾北の鬼門防除の神として、信仰を厚くする。そのため、尾張藩の歴代の代官は、赴任・退任時において、大久佐八幡宮にそのことを報告し、参拝をすることとした。また、大久佐八幡宮で大祭があるときは、尾張藩主に代わって、代官に奉幣参拝(布などを奉って参拝すること。HP「神社小百科 奉幣/例幣」参照)をさせることとした。また、1600年(関ヶ原の戦いがあった年)には、波多野九郎佐と言う者が分家して郷士となり、現在の春日井市東野町において、大久佐八幡宮から神霊を分けて祀り、現在の東野町鎮座八幡神社を創建した。

 2014年現在、大久佐八幡宮に残されているものは、全て、江戸時代以降のものである。その中で、最も古いものが、元禄8年(1695年)の加持札(祈りを捧げる儀式に使うお札のこと。)である。それは、木のお札で、3分の1ほどが欠落している。その他のものは、全て、江戸時代中期以降のものである。

大久佐八幡宮の中にある石灯篭その1

4本の石灯籠のうち、最も奥にある石灯籠で、寛政9年8月(1797年)という日付が読み取れる。2014年3月このホームページ管理人が大久佐八幡宮の敷地内にて撮影した。

 このホームページ管理人が大久佐八幡宮の敷地内で見た建物の中で、最も古い物は、拝殿の西側(本殿に向かって立つと左側にあたる。)横に、4本まっすぐ列をなして立っている石灯籠である。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によれば、そのうちの1本は、拓本から読むと、享保二十年十二月(1736年)という日付が彫られてあるが、現在は、風化が激しく、このホームページ管理人には、読み取れなかった。その次に古い石灯篭が、延享元年9月(1744年)という日付が彫られた石灯篭である。これらの石灯篭が作られた時代は、江戸時代中期で、8代将軍徳川吉宗が享保の改革を実施したり、老中松平定信が寛政の改革を実施したりした頃である。この時代、江戸幕府による封建社会は行き詰まりを見せ、農村では貧富の差が広まって、百姓一揆が頻発したが、尾張地方(愛知県西部)は、江戸や大阪など他の地域に比べると、百姓一揆の発生回数は少ない方だった。文化においては、杉田玄白・前野良沢らの「解体新書」が出版され、喜多川歌麿の浮世絵が流行った時代である。

 また、大久佐八幡宮には、文政10年(1827年)の社地実測図(大久佐八幡宮の広さを測ったもの。)というものが残されている。この社地実測図は、6尺3寸(約190cm)の間竿を用い、隣地の人の立会いのもとに実測したものである。この結果、文政10年(1827年)当時の大久佐八幡宮の敷地は、7,990坪あり、現在ある大久佐八幡宮の敷地の約6倍の広さがあった。

 大久佐八幡宮の由緒にあるように、大久佐八幡宮は、安土・桃山時代(16世紀)に豊臣秀吉によって、社領を没収されたはずである。大久佐八幡宮の言い伝えには、江戸時代に入って没収された社領が返って来たという記述がないので、この「7,990坪」という広さは、大久佐八幡宮が安土・桃山時代(16世紀)に豊臣秀吉によって社領が没収された後の広さである、と考えられる。それでも、現在ある大久佐八幡宮の敷地の約6倍の広さがあったとは、驚きである。

 そして、安土・桃山時代(16世紀)に豊臣秀吉によって社領が没収された大久佐八幡宮に文化の花が大きく開くようになるのは、幕末から明治初期にかけてのことである。幕末の慶応3年(1867年)8月1日付で、大久佐八幡宮は、神階では最高位の「正一位」の位を授かり、それまでは単に「八幡宮」と呼称されてきた神社の名前が「大久佐八幡宮」と称されることになる。

 もちろん、大久佐八幡宮が、幕末の慶応3年(1867年)に「正一位」の位を授かるまでの間には、先人たちの並々ならぬ苦労があったことは、言うまでもない。

 現在、大久佐八幡宮に残されている最も古いものである、元禄8年(1695年)の加持札(祈りを捧げる儀式に使うお札のこと。)に書かれた字句は、吉田神道の呪文の文句である。吉田神道の家元吉田家は、室町時代には、地方の神社に神位を授け、また、神職に位階を授ける権限を持っていた。江戸幕府が1665年(寛文5年)に禰宜・神主法度を出してからは、皇室ゆかりの伊勢神宮などの大社以外の地方の神社に神位を授け、神職には位階の免許状を与える肩書きを吉田家が持つようになる。(「Wikipedia吉田神道」参照)

 つまり、現在の大久佐八幡宮に残る元禄8年(1695年)の加持札(祈りを捧げる儀式に使うお札のこと。)は、この時、既に、大久佐八幡宮が吉田家の支配下に入っていたことを意味するものである。そして、元禄8年(1695年)から172年後の慶応3年(1867年)、大久佐八幡宮は、神階では最高位の「正一位」の位を授かる。

 16世紀末に豊臣秀吉によって、社領を没収された大久佐八幡宮は、江戸時代に入り、社領を取り戻す事はできなかったものの、尾張藩の厚遇を受け、吉田家の支配下に入って、その勢力を徐々にレベルアップさせていった。その勢力は、土地という物理的な目に見えるものではなく、精神的な目に見えないものであった。江戸時代を通して、力をレベルアップさせた大久佐八幡宮は、幕末に、その力を、目で見えるものに開花させることができた。しかし、その後の明治時代を動かしていく明治政府は、大久佐八幡宮にとっては、過酷な試練を与えるのであった。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行