7.幕末から明治維新へ〜大久佐八幡宮正一位叙位と小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札〜

小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札の説明板

2013年1月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮にて撮影した小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札の説明板である。

小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札1

大久佐八幡宮拝殿に掲示された絵札の写真を拝殿の西側横(拝殿に向かって左側)から撮影したものである。2013年1月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮にて撮影した。

小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札2

拝殿に掲示された絵札の写真を拝殿正面から撮影したものである。2013年1月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮にて撮影した。

 一体、いつごろから、大久佐八幡宮で歌会が盛んに催されるようになったのだろうか。そのことを示す資料は存在しない。しかし、大久佐八幡宮には、江戸期に開催された歌会の短冊が多数残されている。そして、それらの歌の短冊は、北は福島県から南は熊本県までの広範囲から、寄せられている。そして、上の写真に見られるように、拝殿の四周の壁の上部に「三十六歌仙絵札」は、掲示されていた。昭和61年(1986年)に行われた大久佐八幡宮の大修理の時、130年位の間、吹きさらしの拝殿の四周の壁の上部にそのままの状態で掲示されていたその「三十六歌仙絵札」は、風雨による風化が激しかったので、取り外され、保管された。

 この「三十六歌仙絵札」は、奉納札から、江戸麹町の池田屋吉兵衛により、大久佐八幡宮に奉納されたものであることはわかっている。しかし、江戸麹町の池田屋吉兵衛は、東京に住みながら、なぜ、愛知県小牧市大草にある大久佐八幡宮を知っていたのだろうか?(幕末期の大久佐八幡宮は、私たちの知っている大久佐八幡宮だったのだろうか?)そして、江戸麹町の池田屋吉兵衛が、なぜ、このように美しい「三十六歌仙絵札」を大久佐八幡宮に奉納したのか?そして、「三十六歌仙絵札」は、神社の宝として神社内部(宝物殿など)に保管されるのではなく、なぜ、わざわざ、ほとんど屋外である拝殿の壁の上部に掲示したのか?

 小牧市HP「三十六歌仙絵札」によると、この「三十六歌仙絵札」の絵の作者の一人が、文政(1818〜1830年)から慶応(1865〜1868年)までの間に活躍した人物であることから、「三十六歌仙絵札」は、幕末に制作されたものであると結論付けられている。ところで、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)によると、大久佐八幡宮には、数多くの棟札(建物の建築・修築の記録として、建物内部の高所にとりつけた札のこと。「Wikipedia棟札」参照。)が存在している。そして、それらの棟札からわかることは、幕末期にあたる大久佐八幡宮の拝殿の大きな修築といえば、嘉永2年(1849年)の再建(しかも、新しく造り替えたらしい。)であるということだ。それ以後の大きな修築は、昭和61年(1986年)まで待つことになる。昭和61年(1986年)に大久佐八幡宮で行われた昭和の大修理に携わった、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」の著者である波多野氏は、拝殿の骨組みが、鬼瓦や手造りの釘とともに、嘉永2年(1849年)の再建当時の姿のまま、堅牢そのものであったと著書の中で語っている。そして、波多野氏は、著書の中で、江戸麹町の池田屋吉兵衛が「三十六歌仙絵札」を奉納したのは、嘉永2年(1849年)の再建祝いの歌会の時なのではないかと述べているが、このホームページ管理人は、波多野氏の意見に賛成である。

 このホームページ管理人が想像するのは、江戸時代の中期に大久佐八幡宮が吉田家の支配下に入ってから、大久佐八幡宮の宮司や氏子の誰かが、歌の文化を大久佐八幡宮に根付かせていったのではないか、ということだ。

 神社が続く、ということは、そんなに簡単なことではない。現在でも、多くの小さな神社が潰れていく。神社を潰さないためには、その神社の氏子や地域の人々の支持が不可欠である。神社に「文化」を根付かせる、ということも、神社を潰さないための一つの手段である。つまり、大久佐八幡宮が江戸時代中期に吉田家の支配下に入ってから、神社を存続させるために、神階では最高位の「正一位」の位を授かるまでの172年間をかけて、大久佐八幡宮の宮司や氏子は、この地域の中で、歌の文化を育んで行ったのではないか。

 歌会が育む絆は、歌に興味がない人々の想像を絶するほど、強いものなのではないだろうか。しかも、その絆は、一朝一夕で出来上がるものではない。歌の文化は、幕末期になって、彗星のように現れ、消えていくようなものではない。ましてや、文化人が、突然、その地域に現れて、突然、花火のように打ち上がるものでもない。そして、歌の文化が、突然、その地域から廃れたとすれば、それは、大久佐八幡宮を潰そうとする外からの力が加わった結果なのであって、文化人がいなくなったから、歌の文化が廃れたのではない、と、このホームページ管理人は考える。

 江戸麹町の池田屋吉兵衛は、大久佐八幡宮の宮司や氏子や地域の人々が、100年以上も歌会を存続させていることを知って、感銘を受けていた者の一人だった。そして、歌が好きな池田屋吉兵衛は、歌会を続ける、という行為が、どれほど大変なことか知っていた。大久佐八幡宮の拝殿が新しく造り替えられることを知った池田屋吉兵衛は、「これからも、大久佐八幡宮で歌会が続きますように。」という祈りを込めて、「三十六歌仙絵札」を大久佐八幡宮に奉納した。この時、「三十六歌仙絵札」を拝殿の壁の上部に掲示してもらえるように頼んだのも、池田屋吉兵衛だ。歌には興味がないこのホームページ管理人なら、「こんな美しいものは、汚れないように、屋内に保管してください。」とお願いするところだが、池田屋吉兵衛が「三十六歌仙絵札」を大久佐八幡宮に奉納する理由は、「大久佐八幡宮で歌会が末永く存続すること。」だった。そのためには、美しい「三十六歌仙絵札」が誰の目にも留まるように、そして、できるだけ多くの人々が、歌に興味を持ち、その絵札のもとで、歌を歌うことができるように、池田屋吉兵衛は、あえて、ほとんど屋外の環境である拝殿の壁の上部に「三十六歌仙絵札」の掲示をお願いし、大久佐八幡宮の宮司は、池田屋吉兵衛の心意気に同意した。

 そして、池田屋吉兵衛による「三十六歌仙絵札」の奉納から18年後、大久佐八幡宮は、神階では最高位の「正一位」の位を授かる。慶応3年(1867年)のことであった。この年、江戸幕府は大政を奉還して滅び、明治天皇が即位して、王政復古の大号令が出される。時代は、江戸時代から明治時代に移行しつつあった。しかし、明治4年(1871年)以降になって、大久佐八幡宮にて、正一位叙位を祝う祝賀の歌会が開催される。この歌会のために、全国から大久佐八幡宮に歌が集められた。現在、大久佐八幡宮に残されている和歌の短冊の中には、目の保養になるほどきれいなものや、公家や吉田家からと思われるものなどが数多く存在している。その数は、256首あると「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)には書かれている。池田屋吉兵衛が奉納した「三十六歌仙絵札」のもとで、正一位叙位を祝う祝賀の歌会は、盛大に行われたのであった。

 これが、このホームページ管理人が想像するストーリーである。もしかしたら、この頃、大久佐八幡宮で行われていた歌会は、現在でも、誰かの手に引き継がれているのではないか?このホームページ管理人には、そのように思えて仕方がないのだ。それは、歌会に興味のない者には見えていないが、この歌会を引き継いで、何らかの形で、現在まで歌会を開催している者がいるのではないだろうか。そして、そのことが、大久佐八幡宮が現在でも大草に存在している理由の一つなのではないだろうか。

 「明治維新」と言われるように、徳川幕府を滅ぼした明治政府は、大胆な改革を数多く行い、それまで、徳川幕府が行ってきた制度を次々に変えていった。明治時代は、江戸時代の否定から始まったと言っても過言ではない。明治政府によるこのような改革の一つに、「近代社格制度」というものがあった。明治4年(1871年)、明治政府は、江戸時代に吉田家によって行われていた神社の神階を廃止し、延喜式に倣って、新しく、神社を等級化する制度を発表した。全国の神社は、官社・諸社(民社)・無格社に分けられ、諸社(民社)は、更に、府県社・郷社・村社に分けられた。神社がどの格付けに入るかによって、国から入ってくるお金や待遇に差があり、多くの小さな神社が、明治時代末期までに、他の神社に合祀されて、廃社となった。(「Wikipedia近代社格制度」参照)江戸時代に力を付けて、ようやく「正一位」の最高位を得た大久佐八幡宮にとっては、試練の時代を迎えることになった。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「東春日井郡誌」大正12年1月発行