8.明治時代〜明治政府による神社の格付けと大久佐八幡宮〜

春の大久佐八幡宮

赤い鳥居の隣に「郷社 正一位大久佐八幡宮」という石標柱が見えるが、この石標柱は、昭和13年(1938年)9月に建設されたもので、この字は、元尾張藩主侯爵徳川義親閣下の筆によるものである。2014年4月にこのホームページ管理人が大久佐八幡宮を入口から撮影した。

 慶応3年(1867年)8月付けで、神社の位としては最高位の正一位を授与された大久佐八幡宮では、明治4年(1871年)以降数年の間に渡って、正一位叙位を祝う祝賀の歌会が、「三十六歌仙絵札」のもとで行われていた。この頃、東京では、明治政府が、神社の位に関して、「官社以下定額・神官職制等規則」という制度を発表していた。これは、伊勢神宮などの大社以外の地方の神社に神位を授与し、神職には位階の免許状を吉田家の肩書きで授与する、という江戸幕府が行っていた神社制度に取って代わるものであった。つまり、明治政府は、江戸幕府のもとで吉田家が授与していた神階の代わりに、新たに全国の神社を等級化するという「近代社格制度」を発表したのである。(Wikipdia「近代社格制度」参照。)この近代社格制度は、その後、第二次世界大戦後にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の神道指令により、廃止されたが、現在でもこの「旧社格」をそのまま神社の社名標に残している神社は多い。

 ここで、明治政府が行った「近代社格制度」を簡単に説明してみよう。

 明治政府は、伊勢神宮以外の全国の神社を官社・諸社・無格社に分けた。神社関係は内務大臣の所管となり、内務省には神社局が設置された。

 まず、官社について説明してみよう。官社は、祈年祭・新嘗祭をするときに、国から天皇の命による贈り物(布など)を受けることができる神社であり、官幣社と国幣社に分けられていた。そして、官幣社と国幣社は、それぞれに、大・中・小の格があった。

 次に、諸社について説明してみよう。諸社は、府県社・郷社・村社に分類されていた。

 まず、府県社とは、祈年祭・新嘗祭を行う時に、府や県から、天皇の命による贈り物(布など)を受けることができる神社のことである。

 次に、郷社とは、1つの村に存在する1つの神社のことである。明治時代以前から、村では集落単位の共同生活が営まれていたが、村という行政単位の要素の1つに、1つの村には1つの氏神祭祀が存在し、1つの氏神祭祀には1つの神社が存在していた。明治政府は、これらの1つの村にある1つの神社を郷社に指定した。従って、全国に存在する郷社の数は、明治時代当時の村の数と同じ18万社余りであった。郷社は、例祭の時には、地方公共団体から補助を受けることができた。

 また、村社とは、意味としては、郷社と同じものであるが、郷社に付属するものとして設定された。しかし、明治40年(1907年)からは、村社の中に、「神饌幣帛料供進指定社」という指定が存在するものと指定が存在しないものが現れるようになった。村社の中でも、「神饌幣帛料供進指定社」に指定された村社には、例祭の時、地方公共団体から補助があった。なお、近代社格制度のもとでの大久佐八幡宮は、明治40年(1907年)10月付けの社格としては、村社(神饌幣帛料供進指定)であった。ちなみに、大山廃寺跡に建つ児神社の社格は、村社(指定なし)であった。

 一方、無格社とは、法的に認められた神社の中では、村社に至らない神社のことであった。無格社は、例祭の時に地方公共団体からの補助もなく、境内地が地方税免除の対象にもされなかった。規模の小さな無格社の多くは、明治時代末期の神社合祀令によって、廃社となった。そして、その結果として、多くの祭礼習俗が消えていき、小さな集合体に属する人々の宗教的信仰心が傷つけられた結果となった。

 さて、明治40年(1907年)10月付けの大久佐八幡宮の社格は、村社(神饌幣帛料供進指定)であった。江戸幕府のもとでは、神社の最高位であった「正一位」を授与されていた大久佐八幡宮が、明治時代には、全国的には中の中位の格付けで、村社(神饌幣帛料供進指定)となった。しかし、明治時代には、日本国内にある神社の半分以上が無格社に格付けされたことを考えれば、江戸幕府のもとでは神社の最高位であった「正一位」を授与されていたというプライドは傷ついたものの、昔、源氏の武士が大きくしたという由緒を持つ大久佐八幡宮は、まずまず、明治維新を生き残れたというのが、このホームページ管理人の感想である。やはり、歌会の力は大きかった、というべきだろうか。

 このホームページ管理人には、神社にとっての郷社と村社(神饌幣帛料供進指定社)の違いがはっきりわからないが、格付けとしては、村社は郷社の下であることだけはわかる。しかし、明治時代を生きた大久佐八幡宮の宮司や氏子たちは、大久佐八幡宮の社格が村社(神饌幣帛料供進指定社)であることに不満を持っていた。恐らく、明治時代を生きた大久佐八幡宮の宮司や氏子たちの中では、「大久佐八幡宮が、大草村にある1つの氏神祭祀であり、大草村という村を1つにまとめているのは、大久佐八幡宮である。だから、大久佐八幡宮は、大草村の郷社に列せられるのが正しい。」という意見が大半を占めていたのだろう。

 大正12年(1923年)2月付けで、大久佐八幡宮の宮司や氏子たちは、郷社昇格願いを内務省に提出した。大久佐八幡宮の宮司や氏子たちが郷社昇格願いを内務省に提出した少し後になって、大正12年(1923年)10月には、東京で関東大震災が起こり、死者の数は10万人を数えた。大正15年(1926年)、大正天皇が崩御して、昭和天皇が即位し、時代は、昭和となった。そして、内務省から郷社昇進指令書が出て、村社であった大久佐八幡宮が郷社に列せられたのは、昭和12年(1937年)に入ってからのことであった。

 大久佐八幡宮の宮司や氏子たちが郷社昇格願いを内務省に提出し、内務省から大久佐八幡宮の郷社昇進指令書が出るまでの約15年間、日本では、不景気が深まり、軍部が台頭していった。そして、旧日本軍の一部の人間によって満州事変が引き起こされ、日本は国際連盟を脱退した。日本国内では、2.26事件というテロ事件が起こって、政党政治は崩壊し、日本の軍国主義やファシズムが深まりを見せていった。そして、昭和12年(1937年)、北京郊外で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争が始まった。

<参考文献>

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行

「東春日井郡誌」大正12年1月発行