9.大正時代から昭和時代初期〜大久佐八幡宮の郷社昇格願い〜

 2014年現在、大久佐八幡宮にて、私たちが目にすることができる建物は7つ、石標は2つ、石燈籠は9つ、常夜灯は2つ、狛犬は4つ、稲荷神社は1つある。これらの中で、建物7つは、昭和61年(1986年)の昭和大修復により、修繕されている。そして、常夜灯1つと石燈籠4つは、江戸時代中期から末期の日付が彫られている。しかし、その他の石標2つ、石燈籠5つ、常夜灯1つ、狛犬4つ、稲荷神社1つに彫られた日付は、全て、大正時代末期から昭和時代初期の日付である。つまり、私たちが大久佐八幡宮で目にすることができる石造物は、ほとんどが、大正時代末期から昭和時代初期の日付のものなのである。

 明治45年(1912年)、明治天皇が崩御し、大正天皇が即位して、大正時代が始まった。大正3年(1914年)、世界では、第1次世界大戦が始まるが、この大戦で多大な損害を被ったロシアでは、革命が起こり、ソビエト連邦という社会主義国家が成立した。日本は、ロシア革命に干渉するために、シベリアに出兵するが、シベリア出兵は敗北に終わる。しかし、当時の日本政府は、シベリア出兵の敗北を国民に知らせなかった。そして、大正8年(1919年)頃になると、アジアにおける植民地政策に対する民族運動が活発化した。インドでは、ガンディーがイギリスからの独立運動を起こし、イギリスに対して、非暴力による不服従運動を行った。また、朝鮮半島や中国では、日本を始めとする帝国主義支配からの独立を宣言する運動が活発化していた。

 一方、明治政府が推し進めた殖産興業政策は、日本各地で労働問題を発生させ、大正時代に入ると、市民文化としてのプロレタリア文学が起こり、社会運動が高まりを見せていった。また、明治政府が推し進めた近代化・資本主義化は、鉄道や工場建設のための土地開発を盛んにし、開発に伴う文化財の破壊を推し進めた。そのため、史跡・名勝・天然記念物の保存運動が起こり、大正8年(1919年)に、現在の文化財保護法の前身にあたる史跡名勝天然記念物保存法が施行された。

 つまり、明治政府が推し進めた政策による社会の歪みに人々が目を向け出すようになっていったことが、大正時代の特徴と言える。大正時代のこの社会の動きは、大久佐八幡宮の宮司や氏子の心理に微妙な影響を与えていったと、このホームページ管理人は推測する。不景気による会社や銀行の倒産が相次ぐ中で、日本政府は海軍軍縮条約に調印し、労働争議・小作争議が増加していく中で、部落民解放運動の全国水平社、日本農民組合、日本共産党が結成されていく。そして、名古屋で第1回メーデーが行われた大正12年(1923年)2月3日付で、明治政府から村社(神饌幣帛料供進指定社)の社格をもらっていた大久佐八幡宮は、「郷社昇格願い」を内務省に提出するのだった。

 大久佐八幡宮が内務省に提出した「郷社昇格願い」の申請書には、詳しい神社の由緒の他、神社の財産としての境内地1,808坪、社殿の大きさ1間3尺×2間、氏子の数285戸など、具体的な数字があげられており、最後に、「右相違なきことを証明す、大正11年(1922年)10月16日篠岡村長、10月19日篠木村長」で締めくくられている。大正12年(1923年)2月3日付で、大久佐八幡宮が「郷社昇格願い」を内務省に提出してから、昭和12年(1937年)10月9日付で、内務省から「郷社昇進指令書」が大久佐八幡宮に出るまでの14年間を、大久佐八幡宮の宮司や氏子たちはどのような思いで過ごしていったのだろうか。何とか「郷社」の社格を勝ち取りたいという心の葛藤が続いた、長い14年間だったのだろうか。それとも、「自分たちの神社は郷社に列せられるのが当たり前。」という平常心でいられた14年間だったのだろうか。それとも、「自分たちの神社は、歌会の効果もあって、江戸時代には神社のトップの位であった「正一位」の神社である。だから、私たちの神社は、「正一位大久佐八幡宮」ということでいいではないか。」という意見で14年間を過ごしたのだろうか。

 ここで、大正12年(1923年)2月3日付で、大久佐八幡宮が「郷社昇格願い」を内務省に提出してから、昭和12年(1937年)10月9日付で、内務省から「郷社昇進指令書」が大久佐八幡宮に出るまでの14年間の世の中の動きと、その当時の日付で大久佐八幡宮に建てられた石造物などの写真を見ながら、当時の大久佐八幡宮の宮司や氏子の気持ちを探ってみよう。

 大正12年(1923年)2月3日付で、大久佐八幡宮が「郷社昇格願い」を内務省に提出してから、大正12年(1923年)10月に関東大震災が起こり、東京における死者の数は、約10万人を数えた。関東大震災の混乱の中で、多くの社会主義者や労働組合指導者、在日朝鮮人が襲われて、虐殺されたことは、有名な話だ。そして、大正14年(1925年)、日本政府は、国体(天皇制)を変革したり、私有財産制度を否定する思想そのものを取り締まり、社会主義運動や労働運動を制限し、弾圧するために、治安維持法を制定した。

 この頃、大久佐八幡宮の第二鳥居の前に「正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱が建つ。その石標柱は、正面に「正一位大久佐八幡宮」と彫られ、側面に「大正十四年十一月 陸軍歩兵少尉 白石 ラ」と彫られ、裏面に「愛知県農会長 堀尾茂助書」と彫られてあった。そして、大久佐八幡宮の第二鳥居には、慶応3年(1867年)8月に神祇官より請け賜わった「正一位大久佐八幡宮」と書かれた神号額が掲げられていた。(2014年現在、この神号額は、拝殿に掲げられている。)また、拝殿横にある2つの狛犬は、台座に大正14年(1925年)12月の日付が彫られている。

第二鳥居の前にある「正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱

第二鳥居の前にある「正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱で、大正14年(1925年)11月日付のものである。この石標柱の後ろにある石燈籠は、大正15年1月日付のものである。2011年8月このホームページ管理人が大久佐八幡宮にて撮影。

第二鳥居に掲げられた「正一位大久佐八幡宮」の神号額

第二鳥居に掲げられた「正一位大久佐八幡宮」の神号額。慶応3年(1867年)8月に神祇官より請け賜わった「正一位大久佐八幡宮」と書かれた立派な神号額は、2014年現在、拝殿の前に掲げられている。2014年3月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮拝殿の写真

拝殿横にある2つの狛犬は、台座に大正14年(1925年)12月の日付が彫られている。写真の右端と左端に切れて写っているのは、昭和5年(1930年)8月日付の石燈籠である。2013年1月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

 大正15年(1926年)12月25日に大正天皇が崩御し(47歳)、昭和天皇が即位して、昭和時代が始まった。

 2014年現在、拝殿前の狛犬の横にある石燈籠は、大正15年(1926年)1月の日付が彫られている。また、大久佐八幡宮の東側奥にある稲荷神社には、大正15年(1926年)2月の日付が彫られている石標がある。

 昭和2年(1927年)金融恐慌が起こり、銀行や会社の倒産が相次いだ。同じ年、日本は、第一次山東出兵を決定して、中国大陸への侵略政策を行うこととした。そして、昭和3年(1928年)第1回普通選挙が行われた。日本政府の圧迫にもかかわらず、この選挙では、労働者や農民大衆の作った政党が躍進した。政府は、治安維持法を改正して、特別高等警察を設置し、社会運動の弾圧を強化した。

 2014年現在、拝殿の前にある2つの狛犬の台座には、昭和3年(1928年)1月の日付が彫られている。

 昭和5年(1930年)、ロンドン軍縮会議が開かれ、日本は、ロンドン海軍軍縮条約に調印した。この日本政府によるロンドン海軍軍縮条約の調印は、海軍軍令部の同意を得ずに調印されたため、海軍軍令部は日本政府を攻撃した。そして、金融恐慌に伴う日本社会の動揺と、財閥と政党の腐敗の表面化による政党政治に対する不信の増大が重なって、軍部や右翼による日本政府打倒の攻撃はいっそう強まった。そして、昭和5年(1930年)11月、当時の浜口雄幸首相が東京駅で狙撃される事件が起こった。

 一方、農村では、大豊作により米価が暴落し、農業恐慌が起こり、小作争議が増大していた。

 この頃、現在の大久佐八幡宮入口にある赤色の第一鳥居の前に、昭和5年2月日付の石燈籠が建つ。そして、大久佐八幡宮拝殿横の各狛犬の隣に、昭和5年8月日付の2つの石燈籠が建った。

大久佐八幡宮の中にある稲荷神社の朱色の鳥居の写真

大久佐八幡宮の中の東側奥にある稲荷神社の朱色の鳥居の写真。朱色は、生命・大地・生産の力の象徴であり、朱色の鳥居と白い狐が稲荷神社のシンボルとなっている。本来は、農業の神様である。(「Wikipedia「稲荷神」参照)
2013年1月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

大久佐八幡宮の中の稲荷神社の写真

朱色の鳥居をくぐった先には、白い狐がたくさん私たちを出迎えてくれる。これらの狐の前にある石標には、大正15年2月の日付がある。2013年1月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

この稲荷神社は、末社と言って、大久佐八幡宮の祭神や由緒に深い関係を持つものである。この稲荷神社が、大久佐八幡宮の郷社昇格に関与したのかどうかは不明である。

 ところで、このホームページ管理人は、大久佐八幡宮の中の稲荷神社と同じ祠を大山で見たことがある。その祠は、滅失した大山2号墳の前、林道大山池野線入り口にある大きな枝垂れ桜の根元にある白いきつねの祠である。このホームページの「遺跡の山」のページの中にある「野口・大山古墳群」のページの「大山2号墳」のページにこのホームページ管理人が書いた内容は、次の通りだ。

林道大山池野線にある枝垂れ桜の根元にあるキツネの祠

枝垂れ桜の根元には、白い小さなキツネがたくさん入った祠がある。2018年3月25日このホームページ管理人撮影。

 「キツネの祠と言えば、稲荷信仰である。全国に約3万社あると言われている稲荷神社の総本社は、京都にある伏見稲荷大社である。伏見稲荷大社の社伝によると、伏見稲荷大社は、渡来系氏族である秦氏によって創建された。

 秦氏の出自については、様々な説がある。例えば、朝鮮半島の百済系氏族であるとする説、朝鮮半島の新羅系氏族であるとする説、チベット系民族であるとする説、景教徒(キリスト教ネストリウス派)ユダヤ人であるとする説などである。3世紀末に百済から日本に帰化したともいわれているが、疑問視する声もある。しかし、渡来系氏族秦氏は、日本に来てから日本の政治に深く関与している。

 古墳時代から飛鳥時代(6世紀末〜7世紀)に日本で活躍した秦河勝は、聖徳太子の側近として、仏教礼拝をめぐって対立があった蘇我・物部の戦いにおいて、聖徳太子を守りながら、物部守屋の首を斬ったと言われている。物部守屋は、日本には古来より八百万の神がおり、仏教は、日本古来の宗教とは相いれないとする立場の人間であった。

 秦氏は、日本の九州北部に到着してから、東へと歩を進め、関西の中央政権のみならず、関東地方にまで進出した。そして、秦氏の集団は、全国各地で、土木や養蚕、機織りなどの技術を発揮した。(Wikipedia秦氏参照)」

 篠岡村誌や大久佐八幡宮に伝わる郷社昇格願添付書類、神社名改称願の前文が伝えるところによると、大久佐八幡宮の創建は、清和天皇の時代、貞観13年(871年)、駿河国(現在の静岡県大井川以東)井山の住民である井山八郎が、この地(現在の愛知県小牧市大草)に移住して建てたものであると言われている。しかし、平安時代末期の文治元年(1185年)、平氏が滅亡したという知らせを聞いた波多野氏は、源氏一族の支援を受けて、当時大草の片隅にひっそりとたたずんでいた小さな大久佐八幡宮を、大草字東上にある広大な敷地に移転させたという出来事が、この稲荷神社と関係しているのではないだろうか。小さな大久佐八幡宮を、大草字東上にある広大な敷地に移転させた波多野氏とは、古代に日本に渡来して日本の政治に深く関わった秦氏とつながりがあるのではないか。大久佐八幡宮の中の稲荷神社を見ると、このホームページ管理人はそのように考えてしまうのである。

大久佐八幡宮拝殿の写真

大久佐八幡宮拝殿の写真。拝殿に掲げられている立派な神号額は、慶応3年(1867年)8月に神祇官より請け賜わり、昭和初期当時には、第二鳥居に掲げられていたもの。大久佐八幡宮拝殿前に建てられた2つの狛犬は、台座に昭和3年1月の日付がある。この写真の右端と左端に少しだけ写り込んだ石燈籠は、大正15年1月日付のもの。2013年1月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

拝殿前にある2つの狛犬1

2013年1月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人が撮影した、拝殿前にある2つの狛犬。

 昭和6年(1931年)公務員の給料が減俸になった。そして、昭和6年(1931年)9月、一部の日本の旧陸軍(関東軍)によって、満州鉄道の爆破事件が起き、これを機に日本の旧陸軍(関東軍)による中国に対する軍事行動が拡大した。(満州事変)日本の若槻礼次郎内閣は、満州事変の不拡大方針をとったが、軍部(関東軍)はこれを無視し、軍部の政府に対する圧力は強大となり、若槻内閣は崩壊した。一方、この年、農村では、東北・北海道に飢饉が起こった。そして、労働争議件数は、過去最高を記録した。

 昭和7年(1932年)、5.15事件という海軍将校らによるテロ事件が起き、犬養毅首相が暗殺された。この事件によって、政党政治は終わりを告げ、この事件以降の日本の内閣は、軍人や官僚が占めることとなった。

 昭和8年(1933年)、日本は国際連盟を脱退した。この年、プロレタリア文学作家である小林多喜二が特別高等警察の取り調べにより、虐殺される。殴られたことによる小林多喜二の遺体は、ポンポンに膨れ上がっていたという。一方、この年、ドイツでは、ナチスのヒトラーが政権を握っていた。

 昭和9年(1934年)、日本は、大正11年(1922年)にワシントンで締結された海軍軍縮条約を破棄する。そして、文部省に思想局がおかれ、思想統制は今まで以上に強められた。

 昭和11年(1936年)、日本は、昭和5年(1930年)に行われたロンドン軍縮会議から脱退する。そして、2.26事件という、陸軍の青年将校ら1400名余りによるテロ事件が起こり、大臣など4名が暗殺された。また、日本は、この年、ナチスドイツと対ソ連の軍事協定を結ぶ。

 昭和12年(1937年)7月、北京郊外で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争が勃発した。昭和12年(1937年)9月、近衛内閣は、日中戦争の長期化に備え、国民精神総動員運動を展開した。国民精神総動員運動の一環として、愛知県知事は、「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」を提唱して、愛国心を高揚させ、国民の戦意高揚を図った。

 そして、昭和12年(1937年)10月9日付けで、大久佐八幡宮に内務大臣からの郷社昇進指令書が届く。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)には、次のように書かれてある。

 郷社昇進指令書(現在所在不明)

内務省五愛社第九号

 村社 大久佐八幡社

 愛知県東春日井郡篠岡村大字大草鎮座

 右郷社ニ列ス

  昭和十二年十月九日

      内務大臣 馬場^一

 昭和十二年度神社経費トシテ金弐拾参円ヲ供進ス

 愛知県知事 田中広太郎

 「宝物並ニ貴重品台帳」から抜粋

 時代の流れから考えて、郷社昇進指令書に書かれてある内務大臣は、軍人か官僚だろう。(「Wikipedia馬場^一」参照)

 昭和13年(1938年)国家総動員法が公布される。この法律は、戦争が起こった時には、国防のため、日本政府が人的・物的資源を統制運用することができ、戦争を遂行するためには、国民を徴用することができ、物資の生産・配給・移動を日本政府が命令することができ、出版物の掲載の制限・禁止・発売の禁止を日本政府が命令することができるという内容の法律であった。

 そして、昭和13年(1938年)9月、大久佐八幡宮の入口に、「郷社 正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱が建つ。

大久佐八幡宮の入り口の写真

大久佐八幡宮の入り口の写真である。赤い鳥居の前に建つ「郷社 正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱の向かって右側の側面には、「奉納 名古屋市 鈴木寛次郎 石工 岡崎市天野石材商会」と彫られてあり、向かって左側の側面には、「昭和十三年九月建之」と彫られてあり、裏側の面には、「侯爵徳川義親謹書」と彫られてある。また、この石標柱の後ろに見える常夜灯は、昭和5年2月の日付が彫られてあり、向かって右にある常夜灯は、文化12年(1815年 江戸時代後期)10月10日の日付が彫られてある。2014年4月、大久佐八幡宮にて、このホームページ管理人撮影。

 ここまでの日本の歴史をたどり、大久佐八幡宮の入口に建てられた「郷社 正一位大久佐八幡宮」と彫られた石標柱を見れば、この時代の大久佐八幡宮の宮司や氏子たちの気持ちが垣間見える気がするのは、このホームページ管理人だけだろうか。この石標柱の「郷社」の字は、何と小さく、「正一位大久佐八幡宮」の字は、何と誇らしげに書かれているのだろう。そして、景気がいいわけでもないのに、国から新しくお金がおりてくるその理由は、この時代の流れから考えて、軍事目的であることを、この時代の大久佐八幡宮の宮司や氏子たちは知っていたのではないか。この時代の大久佐八幡宮の宮司や氏子たちにとっては、「郷社」の社格よりも、歌会を開催することによって、江戸時代末期に自ら獲得した「正一位」の位の方が断然誇らしかったのだろう。

 明治政府が推し進めた政策による社会の歪みに人々が目を向け出すようになっていった大正12年(1923年)2月3日付で、大久佐八幡宮が内務省に提出した「郷社昇格願い」に答えを出したのは、14年後に日本に誕生した軍事政権だった。大久佐八幡宮の宮司や氏子たちの神社に対する思いと軍事政権の意図とは、一致しているはずがない。

 そして、大正デモクラシーによって政治に目覚めた国民の代表である政治家たちは、軍部・右翼の独走を止めることができず、やがて、軍部・右翼たちに飲みこまれて、負けるかもしれない戦争の道に向かって、ひた走って行く。「勝つ自信のない戦争はしない。」ということが、戦う鉄則であるにもかかわらず、近衛内閣は、戦争の長期化を予想して、国民に戦争に勝つために、耐乏を強いる。人間は、感情の生物である、と言ってしまえばそれまでだが、この時代の軍部・右翼の人間たちは、わりと、感情的だったのではないだろうか。政治家は、理屈でものを言い、軍部・右翼は、感情でそれに答える。うーん、やっぱり、人間の理屈は、人間の感情には敵わないのかなあ、と、この時代の歴史を勉強して、考えたホームページ管理人であった。そして、軍部や右翼とうまくつきあっていくことができないと、現在の平和な日本も、この時代のようになっていくのではないかと心配する、このホームページ管理人であった。

<参考文献>

「日本歴史」瀬山 健一著 玉川大学通信教育部 平成3年(1991年)3月発行

「新しい歴史」(株)浜島書店 2001年12月発行

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」波多野 孝三著 平成13年7月発行