2.Bブロックの文化財(大久佐八幡宮コレクション)

Bブロックの略図

このホームページ管理人がペイントで作成したBブロックの略図である。

大久佐八幡宮の由緒を語っている石板

大久佐八幡宮の由緒を語っている石板である。2011年8月このホームページ管理人撮影。裏面には、神社の末社と祭礼の日にちが刻まれている。裏面に「昭和六十二年三月吉日建之」と刻まれているが、大久佐八幡宮の昭和の大修復が昭和61年から行われているので、この石板は、その時に合わせて作ったものであろう。

手水舎

手水舎の写真である。2013年1月このホームページ管理人撮影。昭和61年の昭和の大修復の時、柱、水引を新材に取り替え、土間と水吐竜を新設した手水舎である。

第三鳥居

第三鳥居の写真である。2014年5月このホームページ管理人撮影。鳥居の裏面に「平成七年十月建之」と刻まれた鳥居である。大久佐八幡宮の建造物の中では、一番新しいものだが、「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)189ページの写真を見ると、もともとあった第三鳥居を平成時代になって、新しく建て替えたものであることがわかる。

宝物蔵

宝物蔵の写真である。左側に写っているのが社務所で、手前に写っているのが透かし塀である。2011年8月このホームページ管理人撮影。

 次に、「大久佐八幡宮コレクション」とも言える、宝物蔵に収蔵されているであろうとこのホームページ管理人が推測したものの一覧表を掲げる。

<美術品関係>

三十六歌仙絵札(小牧市指定有形民俗文化財)現在、拝殿に掲げられているものは、三十六歌仙絵札の写真なので、現物は、宝物蔵に保管されていると考えられる。詳しいことは、このホームページの「歴史 7.幕末から明治維新へ〜大久佐八幡宮正一位叙位と小牧市指定有形民俗文化財三十六歌仙絵札〜」を参照してください。
246枚の短冊と10通の和歌などの和紙幕末から明治時代初期にかけて、大久佐八幡宮では、盛大な歌会が催されていた。246枚の短冊は、北は福島県から南は熊本県までの広範囲から寄せられた和歌の短冊である。また、10枚の社頭祝いの和歌などを綴った和紙は、公家や吉田家から大久佐八幡宮に送られたものである。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)には、これらの短冊や和紙の一部がカラー写真で載せられているが、いずれも、目の保養になるほど、きれいで素晴らしい物である。ぜひ、現物を公開してください。

<木札関係>

数多くの棟札棟札とは、建物の建築・修繕の記録(工事の由緒・建築年月日・大工の名前など)を記して、建物内部の柱などの高所に取り付けられた札のことである。大久佐八幡宮には、屋根の葺き替え工事や修理工事、約150年に一度行われる再建工事などの工事のたびごとに作られた棟札が数多く残されているが、江戸時代のものが多いようである。
加持祈祷札大久佐八幡宮には、2枚の加持祈祷札が本殿の内部に安置されていた。1枚の加持祈祷札は、天保5年(1834年江戸時代中期)のもので、第十代尾張藩主徳川斉朝の厄除祈願のために、篠木の地域の神主たちが集まって加持祈祷をしたときの札である。(長さ約45cm、幅約18cm、厚さ約9mm)もう1枚の加持祈祷札は、元禄8年(1695年江戸時代中期)の木札である。上部に朱色の二等辺三角形が描かれ、下部には二本の黒色の横線が描かれ、吉田神道の呪文の文句が描かれている木札だが、3分の1ほどが欠落している。昭和二年三月に発行された篠岡村誌は、この木札を神社の社宝として紹介している。

<骨とう品関係>

白鞘刀一口(無銘)(現在は紛失)刃渡り1尺8寸3分(約55.44cm)、来国次の作。昭和13年9月付で、鑑定界の権威である、日本刀剣会顧問、本阿弥光鐐の鑑定書がある。その結果、この刀は、700年以前の作で、国宝級の逸品であり、時価6千円(現在なら、1,000万円は下らない。HP「いまならいくら?」参照)の得難き至宝にて、尾張中納言様(尾張徳川家のこと)の厄除祈願の時、大久佐八幡宮に奉納した物である。現在、木製の収納箱のみが残されている。
白鞘刀一口(現在は紛失)刃渡り1尺3寸5分(約40.89cm)、達磨正宗相川綱広の作で、焼刃刀身の反りといい、実に巧妙にできている。本阿弥光鐐が推賞したものである。現在、木製の収納箱のみが残されている。
狛犬一対陶製で、渋茶色をした、高さ約36cmの狛犬一対である。二代目藤四郎の作と伝えられ、1637年(江戸時代初期)より前の製作とされており、国宝に準じる逸品である。宝物蔵に納められているが、脚部が破損している。
狛犬一対陶製で、玉子色をした、高さ約21cmの狛犬一対である。尾張瀬戸の加藤長一の作で、明治初年の美術品である。
古代祥事釜(現在は紛失)このホームページ管理人の推測では、祭りごとの時に使う古代(7〜10世紀)に鋳鉄された釜のことである。直径約36.96cmで、銘が入っている。250年以前の作で、元禄3年(1690年 江戸時代)9月に、郷士である佐橋重左エ門が寄進したものである。神事のときに使用した清浄釜である。現在、木製の収納箱のみが残されている。
古代祥事釜(現在は紛失)直径約42.42cmで、銘が入っている。その他は、上に準じるものである。現在、木製の収納箱のみが残されている。
嘉永2年の拝殿再建当時の鬼瓦と使用されていた手造りの釘「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)には、昭和61年の昭和の大修復の時、拝殿を再建した際に取り外した、嘉永2年(1849年江戸時代末期)拝殿再建のときの鬼瓦と手造りの釘の写真が掲載されていた。これが宝物蔵に存在しているかどうか定かではないが、このホームページ管理人の希望を込めて、Bブロックの文化財のページに載せることにした。
奉納の神前鏡「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)に写真が掲載されている鏡で、名古屋巾下のみの屋喜七から奉納された物。鏡の裏面には、鶴・松・竹のおめでたい絵が浮き彫りになっている。鏡箱には、「慶応二年(1866年幕末)正月吉日」の文字が見える。

<書類関係>

御神納帳江戸時代末期、大草村に知行地(江戸時代、各藩の藩士に対し、年貢の徴収権を認めた土地)を所有していた尾張藩士26名に対して、大久佐八幡宮拝殿再建の費用負担を求めた奉加帳(寄付者とその内容の記載のために作成された帳面)が作成された。この御神納帳は、惣庄屋(江戸時代、十数か村をまとめて支配した村役人の最上位の者)3名と地頭様組庄屋(それぞれの藩士のもとでその所領の管理を任されている責任者のこと)20名の連署で、嘉永元年(1848年江戸時代末期)十月日付のものである。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)にこの御神納帳の写真が掲載されている。掲載されている写真には、(26名の尾張藩士の大草村における所領の合計は1,360石であるが)寄付の内容が、米5斗、玄米1斗、正金100疋、正金2朱などと達筆な字で書かれている。
文政10年社地実測図文政10年(1827年江戸時代中期)に、6尺3寸(約190.89cm)の間竿を用いて、隣地の人の立会いのもと、大久佐八幡宮の土地の広さを実測した時に描いた絵図である。その結果、江戸時代中期の大久佐八幡宮の大きさは、7,990坪で、現在の大久佐八幡宮の大きさの約6倍の広さがあったことがわかった。「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)に掲載されているこの図のカラー写真を見たこのホームページ管理人の感想は、神社の土地の形状は今とさほど変わらないのだが、神社の土地の広さそのものが広いのではないかという印象である。
神位記(現在所在不明)昭和12年の宝物台帳によれば、長さ約151cm、幅約24cmの巻物で、宝物蔵の中に納められているとあるが、現在は所在不明である。この神位記は、昭和二年三月に発行された篠岡村誌や大正十二年一月に発行された東春日井郡誌にその全文が載せられているが、慶応3年(1867年幕末)8月1日日付で、大久佐八幡宮に神社の最高位である正一位を授与することを証明した書物で、天皇の御璽も押されている。大久佐八幡宮は、それまでは、単に「八幡宮」と呼称されていたが、神社の最高位である正一位を授与されてからは、「大久佐八幡宮」と称することになった。
庁宣昭和61年の昭和の大修理の時に、本殿内から見つかったが、腐食が激しい。大久佐八幡宮が正一位の位を授与されたことを記したもので、かすかに、「従三位侍従卜部朝臣良義」の名前が読み取れる。庁宣の宣旨の内容は、昭和12年の宝物台帳の写真のみが手がかりである。
口宣案(現在所在不明)口宣案とは、口頭で宣旨を述べる案文のことで、現在は所在不明だが、昭和12年の宝物台帳に写真が載っている。
郷社昇格願大正十二年二月三日付けで、内務省に申請された書類である。当時は村社であった大久佐八幡宮の社格を郷社に昇格させるように、内務省に申請した書類である。詳しいことは、このホームページの「歴史 9.大正時代から昭和時代初期〜大久佐八幡宮の郷社昇格願い〜」のページを参照してください。
郷社昇進指令書(現在所在不明)昭和十二年十月九日付けで、内務省から届いた書類である。昭和12年の宝物台帳に、その写しが残されている。詳しいことは、このホームページの「歴史 9.大正時代から昭和時代初期〜大久佐八幡宮の郷社昇格願い〜」のページを参照してください。
神社名改称願明治時代に神社を格付けする「旧社格制度」がスタートしたときに、「正一位大久佐八幡宮」は、内務省の書類に「村社大久佐八幡社」と誤って記載されていたため、昭和三十五年五月付けで、「大久佐八幡社」を「大久佐八幡宮」に直すように、神社本庁に申請した書類である。詳しくは、このホームページの「歴史 12.高度経済成長の時代と大久佐八幡宮」を参照してください。
神社名改称願の承認書と認証書(原本は所在不明)上にある神社名改称願を受けて、神社の名称を「宗教法人大久佐八幡社」から「宗教法人大久佐八幡宮」に改称することを認める承認書が、昭和三十五年六月九日付で神社本庁から交付され、同じく認証書が、昭和三十五年七月二十二日付で愛知県から交付された。現在は、書類原本は所在不明で、書類の写しのみが残されている。詳しくは、このホームページの「歴史 12.高度経済成長の時代と大久佐八幡宮」を参照してください。

参考文献

「大久佐八幡宮伝記 千百余年の歴史と文化を探る」(波多野 孝三著 平成13年7月発行)

「東春日井郡誌」(大正12年1月発行)